プロレスの仕組みができたのは(その2)(見直して再掲)

 

トーツ・モント流のプロレスはあっという間に全米のテリトリーに広まりました。全米には17から20のテリトリーがあって、各テリトリーは利権を守りながら緩い連帯を保っていました。それがNWA(National Wrestling Alliance)です。

 

マッチ・メーカーを通じてプロモーターの意向が強く反映されるレスリングを嫌うレスラーも大勢いました。彼らは1ヶ所のテリトリーに定着せずに、毎月、毎週のようにテリトリーを変える道を選ぶ流浪のレスラーも増えたのです。

 

これはマッチ・メーカーにとっては好都合で、流れ者のヒール(悪役)を使って、安いギャラで新鮮なカードを、地元のベビー・フェイス(善玉)との対立構造を演出しながら提供できるようになったのです。

 

1950年から1960年プロレスは最盛期を迎えます。

 

トーツ・モント流のプロレスの大きな問題も出てきました。流れ者のヒール(悪役)の中には本当の腕自慢も大勢いて、人気者のベビーフェイスに一泡吹かせてやろうと企む輩もいたのです。

 

それに対応するのがポリスマン、バウンサーと呼ばれる喧嘩に強くて、レスリングも高度な技術を持っているレスラーでした。テリー・ファンクは実は父のドリー・ファンクと一緒にチャンピオンのドリー・ファンク・ジュニアのポリスマンを長い間やっていたのは有名な話です。

 

ポリスマンは第一試合で他のテリトリーから流れてきたレスラーと顔合わせし、ギリギリの攻防を繰り広げることによってそのレスラーの技術や性格を査定していきます。1番大事なのは、シュートなのかシュートではないのかを見極めることであり、2番目はこのテリトリーに流れてきた本当の目的を見極めることです。

 

喧嘩に強くて、しかも、高度なレスリングができるレスラーはレスラー仲間からも一目置かれるようになります。それが、シュートととか、シューティと呼ばれる人達で、元タイガーマスクの佐山聡が始めたシューティングにはそんな意味がありました。

 

マッド・ドック・バション

ディック・スレーター

ローラン・ボック

ジョージ・ゴーディエンコ

ボブ・ループ

 

(続く)