<とある場所に投稿したものだが、採用されなかったので載せておく。
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「あなた卒業したらどうなさるの」
「わたくしは、やはり南方に行こうと思います。現地の人に日本語を教えて、少しでもお国のお役に立ちたいですから。」
「そう。南方はひどい気候だと聞いてますわ。あなたお身体があまりご丈夫でいらっしゃらないから十分気をつけてね。」
「はい、それが少し心配なのですけれど・・・あ、あそこに竜胆が咲いていますわ。ちょっと摘んでいきましょうよ。」
「まぁ、綺麗なこと。そうしましょう!」
蝉しぐれの中、小高い丘を流れる清らかな水に手を浸しながら二人の女学生がこんな会話を交わしたかもしれない。
昭和17年夏、大津の石山寺の西にある芭蕉庵(幻住庵)でのことである。
・・・
先日、とある古書店で全部同じ人あてで、差出人も同じ21通の古い葉書を手に入れた。宛先は京都市左京区のある女性。差出人も女性で、ビルマ派遣森第七九〇〇部隊とあり、すべてに軍事郵便の検閲印が押されている。日付が書かれていないのでこれらの葉書が出された時期についてはあやふやなところもあるが、内容から推察すると昭和18年から20年春ごろまでの間に投函されたもののようだ。おそらく差出人と受取人は女学校の同級生で、学校では国文学を学んでおり、昭和18年に卒業したのち、差出人である女性は日本語の教師として南方に赴任した、ということのようである。
21通のうちもっとも早い葉書にはこのようなことが書かれている。
(以下引用部分は読みやすいように字体や句読点を一部修正)
『その後お元気のことと存じます。
私は目下赴任の途にありますが、一昨日無事に〇〇○に着き、始めて異境の地を踏みました。やはり何事も現実につき当たってみなければ大東亜共栄圏の姿は分からないと痛感いたしました。
何所に於いても大人より子供の方がよほどかわいらしく、私たちが教へるといふ立場に於いても容易だらうと存じます。
食物も実に豊富で、私の胃袋は小さ過ぎる様です。朝早くから馬車の音や自動車の走る音が聞こえてまいります。道行く人の服装は珍しく見飽きることがありませんが、又日本人の姿も予想外に多いです。異境で見る日本の兵隊さんの姿は他の誰よりも頼もしい限りです。』
目的地ビルマには未だ到着しておらず途中に立ち寄った場所で書かれた葉書であるが、その場所は検閲で引っかかるためか伏字になっている。おそらく初めてであったであろう海外への旅の途中で、異国の文物に興奮し、夢を膨らませている子供好きの女性の姿がリアルに感じられる。しかし当時は戦争の真っ只中、若い女性が南方地域への赴任を決断するのには相当の覚悟もあったはずである。日本から何度も航海を重ね、ようやくビルマに到着した直後と思われる葉書はこのような書き出しになっている。
『各航海毎に今度こそは、今度こそは最後かもしれないと覚悟しつつ此所まで全く何の危険もなしに来られたことは本當に神慮以外の何物をも考へずには居れません。』
さて目的地のビルマのラングーン(現ヤンゴン)で、新しい教師としての生活が始まる。日本語や日本の文化でもって現地の人を教育するのだ、という現代の感覚では少々奢った考えで赴任した彼女であるが、実際に現地の人々に接していく中で、少しずつ考え方が変わっていったようである。赴任後、半年ほど経った葉書にはこのように書かれている。
『ビルマ人は南方共栄圏の中でも日本語熱が盛んで素質のよいことを感じています。少なくとも今の所私には人種的差別観念を以って教へることは出来なくなっています。恰も自分の肉親の様な気がしてなりません。』
『もうこの頃では(生徒は)すっかり自分の子供の様な気が致します。日本人より余程純朴でこちらが本當に愛を以って導くと、はい、はいと実に素直について来ます。日本の歌をとても習ひたがりますので、やむにやまれずピアノの練習を始めて我流乍も簡単な歌ぐらいはひける様になりました。』
お国のためという強い使命感が、徐々に現地の人々や生徒たちとの交流を通して、より人間味のある感情に変わりつつあるのが読み取れる。とはいえやはり日本の文物を欲する気持ちは抑え難かった様で、返信の葉書を何度も読み返したとか、浄瑠璃の三味線の音が内地で聞いたときにくらべ遥かに心に響いたなどというのである。
『・・・しかしお手紙を読んでいると、次々と記憶がよみがへって来て懐かしさに耐へません。京都の春景色をもう一度この眼で見たいと思ひます。草枕の中にたちこめたあの陶然たる雰囲気に浸ることは出来ないものでせうか。』
そんな彼女を慰めてくれたのが、生来好きであった花である。
『こちらは年中 花が沢山咲いています。それが殆ど皆野生の木の花で、内地では見受けられない花が殆どです。夜虫の音も今尚聞こえ、蛍もとんでいます。』
時々触れられる花の話題を読むと、彼女にとって南国の花々がどれほど慰めになったか想像に難くない。実際はビルマの気候風土、生活は彼女に合っていたのであろう、食べ物が美味しくて体重が増えて困るといった記述が所々に見られ、今も昔も女性は体重のことを気にするものだということが知れて面白い。
では彼女は日本が占領したビルマをどのように感じていたのだろうか。検閲のため戦況に関する記載は全くと言っていいほど書かれてないのであるが、そのことが垣間見られる文がある。
『只今私の滞在致して居ります都市は、非常に壮麗な英国式の建築物があちらにもこちらにも屹立して居り、その一つ一つを見る毎に我が国が大東亜戦争の結果獲得した財産は誠にはかりしれないものがあるのだと痛感し実感致します。それにつけても今後この莫大な富を包容した南方を、如何に立派にもり育ててゆくかを考へますと、微力乍ら現在私が感じている感激を以て再び内地に帰り、新たに南方進出する人達の教育にたずさはりたい気持ちが致します。』
現代の我々からするとあまりにも無批判と感じるのであるが、お国の行うことは決して間違いではない、という純粋でナイーブな愛国心が、いっそ清々しい。検閲を受けるという条件下の文章であることを差し引いたとしても、おそらく当時の教育や制限された情報の元では、一般庶民の感覚はこのようなものだったのだろう。
ビルマに赴任して2回目の正月を迎え、昭和20年となると戦況は徐々に悪化し、世界情勢は徐々に緊迫していく一方で、彼女の生活は予想外に平穏に続いていく。この後にラングーンは戦場となるのであるが、おそらくそのような情報も入ってこないのであろう、昭和20年の春ごろに書かれたと思われる最後の葉書にもこの様に書かれている。(カッコ内は筆者追加)
『その後如何お暮らしですか。
内地も随分大変でせうね。南方にいればいる程、想像とは反対に南方にうとくなるといふ妙な真理を発見いたしました。何と言っても内地程各地の情報が集まり得る所はなく、(内地では)広い面から戦局など観察することができるだらうと存じますが、こちらではたとへすぐ隣りで行はれている事であっても、一度新聞やニュースといふものを通さずしてはそれを知ることは出来ないのですから、自ら内地の人々よりは戦況にうとくなるといふことは私にはさけがたい様に思ひます。
そして又敢えて知らうとは今望みません。ただひたすらに現在の自分の使命に邁進して行きたいと考えています。』
この年の夏までにラングーンはイギリス軍によって奪還され日本軍は撤退するのだが、現地にいた軍属や民間人がどうなったかは定かではない。彼女がその後どうなったか。無事に帰国できたのか、帰国できたとしたら、終戦後何を考えどういう生き方をしたのか、もはや知る術はない。
しかしながら、使命感に燃えた一人の若い女性教員はきっと無事に日本に帰国し、再び教育という夢に立ち向かっていったにちがいない。
・・・
「昨年あなたからのお手紙が途絶えたときは本當に心配しましたのよ」
「内地への帰還はもう大変でしたわ。それでもみなに会いたい一心で必死に帰って来ました。」
「これからあなたどうなさるおつもり」
「そうですわね。しばらく休んでからやっぱり子供達の教育に関わりたいですわ。これからの日本は子供達が作り上げていくのですから。
・・・あ、もうゆずの花が咲いているのですね。ビルマにはユーザナパーンという柑子に似た木があって、発音がゆずっぽくて面白いなと思ったものです。本當にビルマでのことは夢のようですわ」
昭和21年の春、京都のとある場所でこんな会話が交わされた、かもしれない。
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