久々に〝朝まで飲み〟をやらかして、入谷駅0523発の始発で帰る。
始発は各駅停車だ。埼玉の、自分の駅まで50分弱。
うたた寝をするにはちょうどいい時間……だった。五十前までは。
還暦に近づくにつれ、それまでは絶対にしなかった「乗り過ごし」を
3回に一度のペースでやるようになった。
この日もまんまと乗り過ごし。6つ先の和戸駅まで。
乗り過ごしている間の眠りの中で、おかしな夢を見た。
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心の底から疲れ切って、千鳥足で家路に着く自分。
酔ってはいない。ただ、疲れている。
そんな自分を嘲笑うかのように、傘の端が欠けた街灯の下を
巨大な蛾がブンブンと飛び回っている。黄色い鱗粉を撒き散らしながら。
口中には苦味だけがある。鱗粉でも入ったか。上がってきた胃液か。
やっとの思いで、安アパートの自分の部屋に辿り着き、ドアを開ける。
当然あると思っていた「おかえり」の声が無い。
その声だけが聴きたくて、必死に歩いたのに。
その声だけが聴きたくて、泊まらずに帰ったのに。
仕方が無いから、自分で部屋の電球のスイッチを入れる。
と、部屋の中央のちゃぶ台の上にメモ書きがあるのが目に入った。
〝↓の子は私の代わり。可愛がってね。いままでありがとう〟
拙い文字で書かれた文章を読んで、少し動揺する。
なんだ。あいつはいっちゃったのか。
↓の子ってなんだ? と思い、ちゃぶ台の下を見ると、
ところどころが煤けて中の紙パイプが見えている段ボール箱の中に、
小さな生き物が眠っている。子猫だ。
白い毛に覆われた体表の中に、筆で描いたような文様が
ところどころに散らばっている。紺に橙、黒に金、茶に黄と、
六色が交差する文様は、誰かに悪戯描きされたように思えたが、
注意深く見ればそうではなくて、毛がその色なのだ。
こんなにたくさんの色が模様に入った猫は初めて見た。
そう思ってしばし、そいつを眺める。
寝顔を見ているうち、安らかなその表情が、穏やかな時の
出て行ったあいつに似ている気がして憎たらしくなり、
鼻を少し摘んでみる。すると子猫は、
プシュッと軽い嚔をし、目を覚ますと、こちらを潤んだ眼で見上げて、
「にゃあ」と哭いた。
〝オマエはあいつの代わりなのか?〟
〝………〟
〝代わりにここにいるつもりなのか?〟
〝………〟
〝嫌だよ。オマエも出て行っちまえよ〟
〝にゃあ〟
最後の問いかけにだけ鳴き声で答えると、
子猫は脱兎の如く箱から飛び出した。
しまった、ドアを閉めていない、と思ったのも束の間、
子猫は飛び出して行ってしまった。
慌てて追いかけたが、色とりどりの体表は電灯の下で一度だけ
きらりと輝き、すぐに宵闇の中に消えてしまった。
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そんな、短い夢。
和戸の駅から上り線に乗り直した電車の中でも、
ずっとその夢を思い出していた。
乗り過ごしの眠りの中で見る夢なんて、いつもはすぐに忘れるのに。
もちろんその夢は完全なフィクションだ。
独り暮らしは30年近くしたけれど、
安アパートと呼ばれるようなところに住んだことはないし、
もちろん、待っていてくれる女性と同居したこともない。
誰かと一緒に住むなんて、考えたこともない。
ただ、この夢に少し近い状況を、経験したことはある。
一人暮らしを始めて4年目ぐらいの頃。
その頃は、南麻布の、最寄り駅まで歩いて小一時間かかる、
つくりは立派だが古くて狭いマンションに住んでいた。
不便だから借り手も少なくて、2階の六つの部屋で、
入っているのは自分だけ。
だから、隣付き合いをしなくて済む分、気が楽で、
よく友達が泊まりにきては、どうでもいい話をしながら朝まで飲んだ。
その日は、近所の馴染みの店に友達が来ていて、
しこたま飲んで朝帰りをした。
ほうほうの体で階段を上り、やっと自室の前に辿り着くと、
ドアの前に白い段ボール箱が置いてある。
見るとテープ留めはしていなかったので、恐る恐る開けてみると、
中には猫がいた。
薄汚れたバスタオルの上に鎮座して、うとうとしている。
猫は子猫でも成猫でもなく、中途半端な大きさだ。
綺麗な三毛で、どことなく気品のある顔立ち。
なんだこれ? 捨て猫か? オレが飼えってのか?
まだ酔っているので状況を把握し切らず、
眠くて仕方ないので取り敢えず、
段ボールを玄関に引き入れ、冷蔵庫にあったシャケ缶を開けて
段ボールの中の猫の横に置き、そのままにして、
ベッドに直行した。
数時間後の夕方、猛烈な臭気で目が覚めた……。
臭気の元は、ベッド横にあるオットマンに寝転がる
見慣れぬ動物の尻だ。
寝惚けた頭で状況を整理する。
確かに自分は今朝、謎の猫入り段ボールを玄関に引き入れた。
こいつはその箱入り猫で、つい先ほど夕方の排泄行為をして、
ここに寝ていやがるのだろう。オレに尻を向けて。
部屋の中を見渡してみると、ブツはすぐ近くにあった。
窓際の、絨毯の端に。そして玄関では、横に倒れた段ボールの
周辺に、シャケ缶が散らばって強烈な生臭さを放っていた。
状況を推理すると、おそらく何者かが、
入居者の少ないこのマンションの、中でもひと気のないフロアの廊下に、
段ボール猫を置いて行ったのだろう。
その当時は、野良猫は捕獲されて殺処分がデフォルトだったから、
助けてあげようと思ったのかもしれない。
その後は部屋のブツを捨て、掃除をし、段ボール猫と一晩過ごした。
すぐにオレの脹脛に頭を擦り付けてくる、かわいいやつだった。
その当時は、ペットフードのメーカーが発行するペット雑誌の
編集をレギュラーでしていたので、捨て猫野良猫の事情に詳しい仲間がいた。
そいつに連絡をしてみると…
「捨て猫として保健所に連れて行くのが筋なんだろうけど、
お察しの通り、ほとんど殺処分にされちゃうんだよねぇ…。
オマエのとこ、麻布だったよな?
近所に愛猫サークルやってる知り合いがいるから、連絡してみるよ」
との返事。そして翌日のお昼頃、〝仲間の知り合い〟が
猫を引き取りに来てくれた。
愛護団体を運営しているというその女性は、
界隈では有名なお金持ちの家の奥様で、歳の頃なら40代前半の
気品ある美しい女性だった。
ペットキャリーケースに入れられる直前、
その女性の腕の中でダンボール猫は、潤んだ目でこちらを見て一声だけ、
〝にゃおう〟と泣いた。