街場の成熟論/内田樹 文芸春秋社
p.51
ロシア人も日本人も戦争という外傷的経験で深く傷ついた。そのことを否定する人はどこにもいないだろう。しかし、そこから引き出した指針はせいぜい「二度とあんな思いはしたくない」という悔いにとどまった。どちらの国も自分たちの痛苦な経験を「世界の誰もが、私たちが味わったような痛みと苦しみを二度と味わうことがありませんように」という祈りにつなげることはできなかった。そのような祈りにつなげることができなければ、かつて傷つき苦しんだ人たちを「供養する」ことにはならないと私は思うけれども、ロシアでも日本でもそういう考え方をする人はこれまでつねに少数にとどまったし、これからも多数派を占めるとはとても思えない。
だから、私はこの両国には残念ながら「未来がない」と思うのである。ごく常識的なことだと思うのだが、メディアを徴する限り、同じことを言う人を見たことがないので、私が代わって申し上げることにした。
自分が被った苦しみを「他の人には味わってほしくない」、どころか、「この苦しみは自分にしか分かるまい」と思ったり、「他人にも味わって貰わないと引き合わない」と考える人まで存在する。
中学校のテニス部で先輩からの理不尽なしごきを経験した私は、即座に退部を申し出た。
先輩は、自分が先輩から受けたしごきの辛さをを後輩に向けることで憂さ晴らしをしているようにしか見えなかった。
ホロコーストで歴史的な苦しみを経験したユダヤの人たちのパレスチナの人たちに向ける憎悪と殺戮はそれと同じ根を持つ行為のような気がしてならない。
その程度には、想像を絶する差があるけれど・・・。