前に徳島県を訪れたときに寄れなかった、香川県側の竜王神社へと足を延ばしました、徳島県側に「龍王山」と「龍王神社」がありましたが、竜王神社は香川県側で、次の目的地と反対側でしたので、スルーした場所になります。
竜王神社につくとソコは粟井ダムの下になっていて、人気の無い所にありました。
↑ 鳥居です。
↑ 神社というよりは、集会所ではないかと思います。
境内にあった祠群ですが、どうもコチラがメインのようです、祠自体はそれほど古いものではないですが、特徴としてどの祠にも「丸石」がご神体としてはいっていました。
丸石といえば「玉一族」を連想させますが、玉一族と連動していたのかどうか? それとも玉一族が移り住んだのか、竜王とは誰なのか、この丸い石だけが手がかりとして残されていました。
まだ帰るには時間があったので、急遽「女木島」に行くことにしました、女木島は「鬼ヶ島」として売り出している観光地ですが、根拠は桃太郎の物語を菅原道真が脚色したという説に基づくようです。
↑ 鬼ヶ島のパンフです。
では、本当に鬼ヶ島であった可能性があるのかという事ですが、整理して考えないと認識を間違う元になってしまいます。
この島は別名「雌雄島」ともいいますが、私は「男・女」は後から加わったもので、元は両方とも「木島」だったと考えています、なので支配者は「龍樹」となり、竜王の海神の支配地だと思います。
実際に洞窟に行きますと、
中にはこんな説明がありました、犬島の住人とか、讃岐陶村の猿王とか聞いたことの無い話が出てきます、単性・復姓の説から姓を「犬」とした人たちが居たことは間違い無いでしょう、その上で犬島の人たちは綿津見をしていたのですから、当然、女木島に来た可能性は高いかと思います。(岡山県の桃太郎は吉備津彦なので3〜4世紀なのですが、犬島や猿王(猿田族の王の事だと思います)が主人公なら紀元0年前後の話として伝えているようです。)
そして「鬼」とは海賊であるとの解釈もみえますね。
洞内には神社もありました、これはこの場所から石仏が掘り出されたことによると書かれていました。
↑ 仏間の案内板
↑ 菅原道真説の説明板
↑ 説明文のクローズアップ
洞窟をでると「鬼子母神」が祀ってありました、歴史を知らないとスルーしてしまう情報ですが、これでタクシャカ龍王と鬼子母神との接点が見つかりました。(鬼子母神は女木島出身なのかも知れません。)
鬼子母神は七面天女の母親といわれる女性です、鬼のイメージは後から加わったと思いますが、「鬼」の一族ではあったのだと思います、よほどの美人か何かだったのでしょう、タクシャカ龍王の嫁となり弁財天へとつながる血筋の母親になるのですから、美人の女性だったと解釈するしか無いでしょう。
龍樹は香川県に土着した龍王の系譜と考えていますので、配下に「鬼」の一族が居た可能性はあると思います、鬼一族の鬼子母神がいた記憶が中世頃までは残っていて、菅原道真との接点を生んだ可能性は否定できないと思います。
鬼一族はほかの龍王にも付き従っていたでしょうから、吉備の龍王の配下にも鬼一族の者はいたハズです、なので、吉備と女木島の鬼とは同族であった記憶も残っていた可能性が高いと思います。
それから洞窟ですが、「鑿(のみ)あと」も見られ、人為的に拡張されていましたので、確実に「鉄鑿」が生まれた後に人が潜んでいたと思います、だから海賊としていたのは3世紀以降の話だと思います。(可能性の範囲は2世紀から19世紀までの長い間が想定できますが、大正三年に見つかった事から、江戸時代には分からなくなっていたともとれますので、2~17世紀の期間だと想定できるでしょう。)
洞窟の出口の上は「柱状列石」となっていて火山によって生まれた島だと分かりました。
大事なポイントはこの柱状列石が「サヌカイト」である点でしょうか、それほど石質は良い方では無かったのですが、中には良さそうなのもあったので、石刀や石包丁などの石器をつくる為に人が常駐していた可能性は高いと思います。
そして鉄器が盛んに作られるようになってからは、価値を失い放置された所を海賊のアジトとして利用された可能性は高いと思います。
洞内は石室がもろく、それでもすぐに崩れるものじゃないので、夏でも涼しく過ごせ、かつ水場もあったので、ここを拠点とした人たちが洞窟を拡げたと理解できます。
仏像が出たならば、大乗仏教の到来後なので、奈良時代以降にも人が住んでいた証拠かもしれません。
という事で、「龍樹」の情報を期待して行った島ですが、「桃太郎の鬼ヶ島」の情報を仕入れる事ができました、それと「豊玉依姫神社」では神殿様式の祠を見つける事ができました。
海辺なので砂地に鳥居があります。