古代史への理解が深まった為にもうひとつ踏み込んで状況が理解出来るようになりましたので、今回はそれについて言及したいと思います。(復姓の考察もいつかはする予定です。脱線は飽き性の証です。(笑))
復姓の考察から富士王朝としてナーガ族(永・長)が居た事を知り、それが徐市系に侵され富士山の麓から追い出された様子は永一族の分布状況からも分かる通りです。
この後、ナーガ族は出雲王朝を築いていた鶴(クナト王系3部族)・亀(太伯系大一族)・松(太伯系松一族)に合流して姓を「永・長」に改めたと考えられます、しかし出雲王朝では徐市達に対抗しきれなかったとみられ、インドにあった天神の分家である龍王達を呼び寄せたと考えます。
古代日本人は「天神・空神・地神」に分かれ、姓の代わりに部族のシンボルを持ち、アメリカ大陸やトルコ、メソポタミアまで進出していた事は、私の考察からも知る事が出来ます、その中で紀元前5000年頃からは「ナーガ(蛇)族(蛇をシンボルとする一族)」が日本の大王家であった事がメソポタミアに残る円筒印章などから推察されます。
↑ 伏義と女媧
このナーガ族の男王、「天御中主神(伏義、ウトナピシュティム、ノア等)」は海外の支配者となった子供達に紋章を定めたと考えます、それが『神皇記』に残る記述、「又、天つ日調の大御神の御紋章は、日輸に十六筋の光明を附せるものと定め、又、神后の御紋章は、月輪に五三模樣の雲の形を附せるものと定めましき。」から分かります。
出雲王朝の「八雲」とは、この神后の紋章「五三模様の雲」に由来する事は明らかだと思われます、この時日本を治めていたのが大日留女尊である事は、『支那震旦国皇代暦記』にある神農から四代目の「太加王」が日本を攻めた話から推測できます、太加王は一族郎党を殺された為、国王の大日留女尊の義兄弟として初代の「祖佐之男」と呼ばれたようです。(紀元前2000年頃)
この時に伏義の息子、神農(ヤペテ)の系譜は中国の大王として、拡がっていきやがて「漢民族」として象形文字由来の「漢字」を共通の「書き言語」とする民族へと発展して行きます。
この様に日本とはナーガ族の女王が治める国であった事が知れますが、紀元前210年、伏義の長男の系譜で有り、中国を統一した始皇帝と同じ姓、「嬴」を名乗る「徐一族」の徐市(じょふつ)が3100人を率いて日本へとやってきます。
ここで冒頭へと繋がりますが、徐市に富士王朝を乗っ取られたナーガ族が龍王達の力を得て出雲王朝として富士王朝を一旦は取り戻した様子が、『富士古文書』に載る表現だと思われます。
「夏は木が数多くあり、冬も木が多くあり、青木ヶ原という。
この原野に中室、小室があり、その前の湖に大鶴の夫婦(つがい)が住んでいた。
小室の奥の小池に大亀の夫婦(つがい)が住んでおり、
その池から流れ出る川端に、大松があった。
この大松の元の龍が河原に、鶴亀を愛し、夫婦で居り、日夜を重ね重ねて留まること一五○三千六百日。」と本にはありますが、この描写は富士山の麓にある「青木ヶ原」が舞台としてありますので、ナーガ族は描写されていませんが、出雲王朝の「鶴・亀・松・龍」が富士山の麓を取り返している様子が描かれています。
この描写からと、出雲王朝が関東あたりまで制圧した様子が綿津見を構成していた「野島」の分布からも見る事が出来ます。
その後に出雲王朝の高天原が「大和(ヤマト)」であったと考えられます、この時にナーガ族は出雲王朝を構成する一員ではありましたが、独自の王朝を復活させた訳ではありませんでした。
そしてコレは推測になりますが、ナーガ族を真の大王と考える者達が意外に多く、大和(ヤマト)をナーガ王朝として復活させる動きがあったのではないかと思います、それを阻止しようと始まったのが天つ神王朝の大和への侵攻だったのでしょう。
磐長姫がナーガ族やユダヤ系日本人の姫だと分かると、徐市系とナーガ族・ユダヤ系との対立を如実に感じます、同じ神后の系譜であるシャカ族とは、衝突はあるものの、そこまで拒否をしていませんので、何らかの根本的な対立点があった事が分かります。
そもそも大和の名前は「太伯系の大一族と岩手県の山津見、和一族」のハイブリッドに由来する名前のようです、この「大和」の名乗りをした人物は岡山県の「大和村」に最初はいた事が推測出来ますが、奈良県を「大和(ヤマト)」とした国名にした事が出発点にあるような気がします。
この大和を名乗った人物として疑われるのが「八十禍津日神」と「禍津亘彦命」ですが、文献的にはほとんど情報が残っていない人物になります、この人物がナーガ王朝の血筋だと考えられるため、ナーガ王朝の血筋を継ぐ「長髄彦」は大和を奪われまいと壮絶な戦いになったと思います。
この二つの王朝の対立がヤマト王権と蝦夷とに受け継がれ、日本の歴史は長く対立を続けたと考えられます、ゆがめられた歴史からでは正しく古代の日本人を理解する事は難しいのですが、龍王の存在を明らかにすると、こんなにもハッキリと超古代の様子が浮かび上がります。
日本の古代遺跡は石を使ったものがなく、長く「縄文時代があった」としか伝えられてきませんでしたが、これ程世界に影響を与え、特異な文化や先進的な考えがあった事をもっと広く知られるべきだと思います。
龍海