前回の磐座群を後にして、道を少し上ると鳥居が見えてきます。


 表示されている道は一方通行ながら、車で走る事が出来ます。♥

 鳥居の右の道を少し奥に行くと、停めるスペースがあったので、そこへ駐車して参道を登ります。

 

 先に懸額を確認すると、

 「天形星」と彫られています、現地では「天形星」の名前の由来は書いていましたが、その「意味」は分からず、コメントを書きつつ調べると面白い事が分かります。

 

 天形星とは「中国・道教の神で、木星」の事のようです、天形星神社は現在、千葉県流山市に一社しか無い事が書かれていますので、おそらく本社はココの神社だったと思われます。

 

 千葉では「天御中主神」を祀っているらしく、ココには龍宮シャカラ龍王)の暮らす「」があったと考えられるので、龍宮が先祖を祀っていた可能性があるかと思いますが真相は?(天御中主神を祀る神社は少なくて、この辺りの古い神社で祀っているのは「大ヶ島」にある「天御中主神社」が最古かと思っていましたが、この神社が最古なのかも知れません。)

柱鳥居ですね。

階段を上がり見えた境内

後付けなので、角無し。

 この神社も狛犬が生まれる前の神社なので、後付けの狛犬になると思います。

 この立て札には「天石門別保布羅神社」の本殿の説明が書かれています。

 由緒を見るとよく分かります、「最初は熊野権現神倉神社」があったとされ、後に「天形星神社」(ここまでで1221年より前)となり、承久の乱後に「積塔院」となって、明治3年に「天石門別保布羅神社」に復号し、積塔院も「石洞神社」に改称されたとあります。

 

 この説明には突っ込み所が満載なのは私だけではないでしょう、何故なら整合性がとれていないからです、これはたぶんに後の時代による「物語」が記録として残され、その記録を元に教育委員会が頑張って書いたものだと思います。

 

 先に熊野権現の話をすると、熊野大社の開祖といわれる役の行者が捕まった時に、高弟5人が熊野を離れ児島に土着した事に由来しています、西暦で言えば701年以降の事になり、神倉神社はこの後に建てられたと考えられます。

 

 問題はどうして神倉神社がこの地に建てられたのかという事になります、修験道である熊野神社ですから、磐座群の上に神社を建てること自体は不思議でもなんでもありません、しかし5人の高弟が建てた寺は存続していない物もある通りで、5人の高弟への信心により残ったとは考えられないからです。

 

 すなわち「神倉神社」が建つよりも前から、この地には信仰する何かがあったのだと思われます。(熊野神社における神倉神社は本社にあたるので、その後に無人となった事自体がオカシナ話です。) 

 この神社の横には磐座群と同じような造りの湧水池のようなものがありました、ここも水は涸れていましたが、そのすぐ後ろには水が流れていましたので少し掘ると水が出そうな様子がありました。

 

 この様な様式のものは笠岡にある御嶽山の谷間にある「御瀧神社」でも見ました、湧水地に作られる「簡易の井戸」なんだと思います、つまりこの遺物は神倉神社よりも古い可能性があります。

 

 この事から、この地には「」を必要とする「誰か」が居た事が推測されます。


 また後鳥羽上皇の二人の親王は自分を庇護するお寺(五流尊瀧院)では無く、この神倉神社が改称された後の「天形星神社」の前に石塔釈塔様)を建て「積塔院」としたのでしょう?

 

 実は、まったくもって不自然極まりない話になるんです。

 これは「五流尊瀧院」にある石塔で「桜井宮覚仁親王冷泉宮頼仁親王が、隠岐で亡くなった父君である後鳥羽上皇の一周忌供養のために、1240(仁治元)年に建立したものと伝えられています。」と伝承されているものです。

 

 ねっ! 他の神社に釈塔様を建てる必要なんて無いでしょ!(建てるなら五流尊瀧院でしょう!)

 

 では石洞神社にあるコレは何なのか?

釈塔様の横に解説がありました。


 説明板には、天平勝宝三年(751年)の銘のある竹野王塔に類似してあると、重要な事にちゃんと気付いています。

 「釈塔(しゃくとう)」と呼ばれている石塔ですから、モチロン元は「シャカ塔」だったと誰もが考えると思います、だから普通なら釈迦を祀ったのだろうと思いますよね、私はこれが作られた理由は龍宮シャカラ龍王)が死んで数百年の後に、役の行者の五人の高弟がシャカラ龍王の居た地をみつけ祀ったのが最初ではないかと思います。(だから釈迦ではなくて、シャカラ龍王だと私は思います。何故なら釈迦なら誰も間違えずに釈迦塔と伝えているはずと考えるからです。)

 

 私の考察では二人の親王は磐座群の所にあった石塔釈塔様)が壊れかけていたので、後鳥羽上皇の事を祈願する意味を含めて、シャカラ龍王の宮跡であるこの地に移し奉り、石塔を守る「さや堂」として「積塔院」を建てたが、それが石塔を建てたと間違って伝わったと考えます。


 そして、石塔磐座群にあった頃の呼称「石洞神社」の名前も同時に伝承されていたのだと考えます。

 

 そして神仏分離の時に全体が神社となった為、古名の「石洞神社」へと復号されたのは石洞神社の方ではないかと推測します。(天石門別保布羅神社の名前がどこから来たのかは不明。)

 

 天石門別保布羅神社となった経緯が分からないままですが、鳥居の懸額が「天行星」となっていましたので、江戸時代までは「天形星神社」だった事は確実でしょう、だから余計に天石門別保布羅神社の名前がどこから来たのか気になりますが、神仏分離の時には全国で混乱した様子がありますので、その時にオカシナ事になったのでしょう。

 

 では最後にもう一度、「釈塔(しゃくとう)」とは誰を祀ったものなのか、最初はシャカラ龍王の先祖の「釈迦」を祀る石塔があり、それを5人の高弟が立派な石塔を作り安置して「石洞神社」となり、釈迦からシャカラとなる際に地元に伝わる名、「シャク」へと訛り、「釈塔(しゃくとう)」として伝承されていった可能性は高いと思います、そして、その後はシャカラ龍王釈迦が混ざり「釈塔様」へと習合したと推測します。

 

 二人ともシャカ族大王だと思いますので、大きな違いは代数の違いと大胆に言う事も出来るので(強引だ(笑))、まぁ大した違いじゃないというか、どちらも偉大な指導者だったので分離しなくても良いんじゃないでしょうか。(笑)

 

 というわけで、磐座群とココの二カ所が「龍宮城」だったと考えるのが良いと思います。


 (追記)

  「天石門別保布羅神社」の名前の由来が分からなくて、しつこく調べていたら、ついに解釈出来る事になりました!\⁠(⁠°⁠o⁠°⁠)⁠/


 実はこの神社、『岡山県児島郡誌』には「天石門保久羅神社」と紹介されているのです、覚えてはいましたが、調べた人達も知っていたハズなのに、「保布羅」にしたと考えていたのですが………。

天石門保久羅神社(◯)

   ↓

天石門別保布羅神社(✕)


 そして、「ホクラ」で調べると、なんと!


 神倉神社と書いて「ホクラ神社」と読ませていた事が分かりました!

 熊野神社の「神倉神社」は「カミクラ神社」と読ませますので、古名としてはドチラが古名かと言えば、モチロン「ホクラ神社」の方でしょう!

 加えて、磐長姫神社は神殿様式でしたので、「ホクラ(小さな神殿)神社」も神殿様式だった可能性が一段と高くなったのです。

 そして、龍宮の姓が「」の可能性も出て、「子城(くらしき)→敷」にも関係している可能性が出て来てしまいました。
(゚д゚)!

 美星町大倉龍王龍宮の直系である可能性が高い事になります。(母方が大一族)

 龍宮とは、通称を「きび」とし、姓を「」とするシャカラ龍王であり、「龍宮」とも呼ばれ、龍宮の城は御伽話の「浦島太郎」に出てきたので有名になったと考えるべきなのだと思います。

 そしてもう一つ、「天石門(あめのいわと)」とは龍宮こと初代シャカラ龍王を示す言葉ではないかと言う事です。

 だから神社によくある天石門別とは龍宮シャカラ龍王)から分かれた者、即ち龍宮シャカラ龍王)の血筋である事を誇る名乗りであると考えます。

 天石門別神社には手力雄命が祀られる事が多い事を知っている方も多いと思いますが、それは誰を祀っていたかが分からなくなった為だと考えられ、主に天太玉命の系譜がワザワザ名乗ったと考えられます。(天太玉命の父は高皇産霊尊なので、普通なら高皇産霊尊系になる為…)

 加えて、「神倉神社(ホクラじんじゃ)」のルーツはココとなり、熊野に最初に上陸したとされる神倉神社の地は、龍宮が上陸したと考えられ、熊野三神の一人は「龍宮」という事になると思います。

 名探偵コナンもビックリの顛末となりました。
 m(_ _)m

 龍海