寝る前の読書で『富士古文書』を読み返していたら、国狭槌尊の五男の「田仁知比古日向高千穂に国を興した事が書かれていました、高千穂王朝とはこの田仁知比古が興した国の事を言うのだと思います。(意外にアッサリ分かった(^_^)v)

 

 その後は塩土老翁が継承していた様子が間接的に残されていて、天孫降臨の際に塩土老翁瓊瓊杵尊を導いた事になっています、塩土老翁は最終的に塩竃神社に祀られていますから、地神の大王として東北の地に眠ったと考えられます。

 


 という訳で、高千穂王朝の正体は国狭槌尊の五男、田仁知比古高千穂に興していた国を意味するとして解釈してください。(この情報と解釈は、ある意味重要なんですが、重要だと気づけない人がほとんどだと思います。)

 

 では、神武東征の続きです。

 

「又、磐竃二手抉を置いて、搗米を炊き飴を作り、且つ厳瓮を丹生の川に沈めて祈誓ましまししに、孰(いず)れ吉兆あり。」

「皇太子、御感斜ならす(意味:とても感心されて)、則ち、皇兄稲飯王命・三毛野入野王命をして海濱を守らしめ、親ら諸皇弟皇子を從へ、南島筑紫の軍兵を率ゐ(い)て、海陸共に進軍せさせ給ふ。」

 

龍海:占いはどうでも良いのですが、「南島筑紫の軍兵を率い」という一文は重要になりますね、南島を「四国」と解釈するならば、曾祖父のハテツミ(豊玉彦)の系統が協力していたと分かります(中綿津見底綿津見の勢力)、筑紫は意味が「九州」の時と「九州北部筑紫」の時がありますが、軍様を考えると九州北部の筑紫だろうと思います。

 

龍海神武の軍勢は豊玉連合綿津見高千穂王朝といった感じでしょうか。

 

「兵勢日に加はり、士氣益々奮揚す。進んで多太須の屯に向はせ給ふや、山峡より毒烟靉靆(どくえんあいたい、意:毒けむりが雲のようにたなびいてきた)たり。」

「乃ち皇太子、大石劔を拔き左右に打振り給へは、俄に風向變(へん)して賊軍に向ふ。」

「白木人、爲めに苦み遂に營を捨てて走りぬ。」

 

龍海:占いをした周辺を調べても「ただす」とう地名は見つけられませんでした、また神武も大石剣なので、この時代の主流はまだ「石刀」だったと分かります。

 

「偶々(たまたま)大久米命・高座日多命は高天原より還りて、神劔を皇太子に献上し奉る。」

「皇太子、乃(すなわ)ち其由を問はせ給ふ。」

「兩命、對(対)白(たいはく、意味:正直に※たぶん)したまはく、吾等勅を奉して高天原に上り、諸々の天つ大御神を初め天照大御神、並に高皇産靈神に、神勅神託を祈願ましましけるに、乃(すなわ)ち建雷命の佩劔、世司布都の神劔を授かり、又八咫烏を以て、皇軍の嚮導(きょうどう、意味:先に立って案内すること)たらしむ、との神託を授かりにき。」

「則ち、神劔を奉持して還りませるに、今や皇の安座(あんざ、意味:くつろいで座ること。)屋の棟に八咫烏數多止りて鳴きけるを視(み)たりし、と奏しけれは、皇大子御感いと斜(ななめ)ならす。」

「時に忽然(こつぜん)御惱(意味:怒る,腹を立てる。※中国語)痊(い)ゆ(癒える)。」

「皇軍、勇躍奮ひ立ちぬ。」

 

龍海:一般的には神武天皇に届けられた剣は布都御魂剣としていますが、「武甕槌佩剣」とありますので、武甕槌がおびていた剣だと思われます、私は布都御魂剣とは別の剣ではないかと思っていま、石上神宮から発掘された布都御魂剣とは環頭のある鉄で作られた逆刃刀で、祭祀用ではないかと思われるので、神々の加護の象徴としての剣ではないかと思います。

 

龍海:また八咫烏が登場しました、「(た)」とは長さの単位で「指を拡げ親指から中指までの長さ」になりますが、私なら23cmになります、八咫なら184cmですから、大柄な男性サイズですね。

 

龍海:個人を指す場合は「賀茂建角身(かものたけつみ)」として良いと思いますが、神皇記の描写では複数人があるように書いています、奈良等彌神社には「黒装束の修験道」の格好をした八咫烏の像が埋められていたようです。

龍海賀茂建角身命豊玉彦の子で、神武天皇の母親、玉依姫の父親でもあります、味方することは当然ですが、八咫烏と表現される複数の屈強な修験道の格好をした男達と解釈するならば、山野を走り山に詳しい「忍者」のような部隊を「八咫烏」と呼んでいた事が想像されます。

 

龍海賀茂建角身命を頭領とする部隊(修験道のグループ?)が「八咫烏」で、動物のに擬して表現されているとする方が適当なのかも知れません、神々の加護を受け、山野に強い味方も現れて軍の士気が上がったようですね。

 

「皇大子、湯野崎の水門より上陸し、先つ要衝を相して行宮を建て給ふ。其地を日高と名つけ、其宮を日高の宮と稱し奉る。」

 

龍海和歌山県には「日高町」という町があります、しかし「湯野崎」というのはありませんでした、しかし「産湯崎」というのがあり、誰か有名な人が産湯に使った為に湯の崎産湯崎へと名前が変わった可能性があります、なので恐らくは今の日高町に「行宮(ゆきみや)」を建てたのでしょう、しかし現在の日高町にはその伝承は残っていなさそうです。


 to be continued ....


 (オマケ)

 今、広島県の尾道市や三原市の龍王山を巡っています。


 天気予報は雨なのですが、龍王の協力もあって(笑)、必要な所は巡れていますので、またご紹介しますね。

 

 龍海