第二部の項は総説と違い物語的に書かれています、これは神皇記の著者が自分で書いた文書では無く、ここまで見た感じだと、原文そのものが分割して書かれていたと推測出来ます。

 

 今のところ、総説との齟齬は見られませんので、原文は同じ情報を元にしていると考えられます。

 

「第二 丹生本營と日高宮
 皇太子は、時に丹生(にう)の本營に在しましぬ。」

龍海:図の右下に「丹生川上」の比定地(文部省、昭和11年)があります、今は高見川と名前を変えていますが、ここが川上なら、その下に「丹生」があった事になります、宇陀にいた長髄彦を挟撃しようとしていましたので、吉野との間ぐらいに本陣があったのかも知れません。

 

「一日、皇族大久米命・高座日多命を勅使として、高天原に上らしめ、神祖神宗天つ大御神を祀り、國賊退治の祈願をなさしめ給ふ。」

「又、丹生の川上にて高天原の天つ大御神を初め諸々の天神地祇を親ら祷祀(とうし、意味:祈り祀ること。)ましまさむとし給ふ。」

「然るに、祭器なし、因て埴土(はにつち)を天香山に索(もと)めむとし給ふ。」

 「偶々(たまたま)宇陀國司弟猾(おとうかし)は、密に兄猾(えうかし)及び加志國司阿加伊呂(あかいろ、※誰かは不明ですが新羅系の天之日矛の妻に阿加流比売がいる事からその縁者と考えられます。)等の陰謀を企つることを以(もって)聞(きこ)して、其之を索(もと)むるの危險なることを奏しぬ。」

「而して弟猾(おとうかし)は、宇須彦(うづひこ)と共に舆(うま、※中国語)に、天香山の埴土を採り来らむことを請うて去る。」

 

龍海:ここで珍彦(うづひこ)が登場します、珍彦とは椎根津彦(しいのねづひこ)と同一人物だとみられている者で、神武天皇の水先案内を務めた者になります、大ヶ島(岡山市東区)の「神前(かむさき)神社」の伝承にも「(亀船)に乗って水先案内をした」事が伝えられており、珍彦とは、海幸彦、ホツマツタヱにある「ホノススミ」の息子で鸕鶿草葺不合尊の従兄弟にあたります。

龍海珍彦は後に「大和(やまと)国造(くにのみやつこ)」になっていますので、この時に神武天皇に協力した見返りに大出世したことが分かります。

 



「乃(すなわ)ち宇須彦(うづひこ)は老翁に、弟猾(おとうかし)は老嫗(おうな)に、各姿を扮裝して至る。」

「途中果して虜賊(意味:賊ども)之を遮る。」

「乃ち翁嫗を見て、賤陋(せんろう、意味:身分や人柄などがいやしいこと。)なりとなし、嘲(あざけ)り咲(わら)ひて道をそ讓りける。」

「皇太子、常に以爲(おも、意味:~と思う。※中国語)らく、長髄彦は實は白木人(一、作新羅人。)なりと、之と欵(かん、意味:懇(ねんご)ろである。※中国語)を通するもの亦國賊なり。」

 

龍海長髄彦新羅人という記述が出ました、これは国として「斯蘆(しろ)」という国が興っていた為だろうと思われ、斯蘆国新羅国へと名前が変わっていますので、記録をした頃には新羅になっていたと分かります。

 

龍海:正確とは言えないかも知れませんが、神武東征の時には「国名」や「国の主」が王権によってある程度定められている事は分かりますが、王権が分裂している事もあり、新興国として新羅(斯蘆)が興った直後の事なのかも知れません。

 

龍海大和の地は素戔嗚尊によって高天原(全部族を招集した会議・宴会)が行われていた地である為、王権を示すにはもってこいの地になります、そこを新興勢力の斯蘆(新羅)王朝が支配するのか、天つ日嗣を擁する高千穂王朝出雲王朝の後を受けた統一王朝となるのかが、この戦いの本題であったのかもしれません。

 

「國賊即ち家兄(かけい、意味:兄=五瀬命)の仇敵なり。」

「何そ征討せさるへき、と詔り給ひき。」

「漸(ようや)くにして宇須彦・弟猾、埴土を採り來りて之を獻す。」

「皇太子大に悦ひ、乃ち祭典の陶器を作らせ給ふ。」

「宇須彦、丹生の川上の榊を掘り來りて、祭典の料に供す。」

「皇太子、丹生の川上の武禮加奴に清筵を張り、親ら天神地祇を遙拝ましまして、國賊を退治せむことを祷祀ましましき。」

 



龍海丹生川上の伝承も記紀と比較しないと、なんとも言えず、「武禮加奴(むれかぬ?)」も地名なのか、一般名詞なのか全く手がかりがありません、今回は神皇記の解釈に専念したいと思いますので、完全解明はまた今度ということで、ご了承願います。<(_ _)>

 

 to be continued ...

 

 龍海