前回までは「総説」に出てくる神武東征の話でしたが、次は

第四章 後記 人皇

 第一節 人皇創業

 第一 東征の部署」にある記述になります。

 

 どうしてこのような表記になったのか、記録をした時期と人物が総説の時とは違う事が考えられます、三輪義煕も両方を残す事を意識したと思いますので、それを念頭に置き解釈していきたいと思います。

 

「人皇第一代、神武天皇は、宇家澗不二合世、神皇第五十一代、鵜茅葺不合尊、諱彌真都男王尊の第四の皇子にましまして、幼名を日高佐野王尊といひ、諱を神日本磐余彦火火出見天皇と稱し奉りぬ。」

 

龍海:諱として「神日本磐余彦火火出見天皇」とありますが、「彦火火出見」の名は鸕鶿草葺不合尊の父親、ホツマツタヱで「ホオテミ」と表現される人物だと思われますので、本当にその名前を名乗ったかどうかは疑問が強く残ります。

 

龍海:天皇の称号もいつから名乗り始めたかは定かではありませんが、三皇五帝の時代には既にある称号なので、名乗っていないとも言えず、なんとも言いがたい称号なんです、これまでの事象から「開祖」となった人物の名前を受け継ぐ事はありましたが、彦火火出見尊は開祖とは言えず、可能性はゼロではないものの、後世に後付けされた誤伝の可能性も視野に入れるべきだと思います。(後でひっくり返るような史実が出てきた時にでも修正しましょう!)

 

「初め天皇の皇太子たりしとき、父神皇と共に東征にあり。」

 

龍海:いきなり皇太子になった後の事を書いています。(要注意!)

 

「神皇は伊勢口より、皇太子は久真野口より、賊軍即ち真佐勝彦命を奉して反せし長髄彦・禍津亘理命等を、 征討せさせ給ふ。」

 

龍海鸕鶿草葺不合尊は伊勢口、神武は熊野口から攻めた話は同じです、そして賊軍の顔ぶれも一緒ですね。

 

「然るに、吾久真野口は、戰途に利あらず。」

「伊勢は、征討の途次、神皇陣中に於て暴かに神避りましぬ。」

「是に於て闇黒の世となり、士氣索然として振はす。」

「賊軍大に喜び機失ふ可からすと。」

「乃ち、八方の口々の要害の場所に陣を張り、呼譟(意味:群呼ぶすること。)して來り攻む。」

 

龍海:総説とほとんど同じですが、長髄彦の軍が攻めて来たとありますが、一応、まだ矛盾は無いようです。

 

「矢石雨の如くに下る。皇太子、四方の皇軍に合して、縦横奮ひ戦はしむ。」

「然れとも、賊軍、兵勢日に加はり威力益々熾(おき、意味:勢いが激しい。)なり。」

「則ち、皇太子、檄を四方に飛はし、以て義に赴かしむ。」

 

龍海:総説よりは少し詳しくあり、鸕鶿草葺不合尊が死んで後は長髄彦の軍に勢いが増し、神武が困って「」により援軍を求めています。

 

「即ち、諸大國の初世太記頭より諸区國令に、又、區國令より諸小國司に、小國司より諸郷首に、郷首より譜村戸長に、逐次飛檄を移してけり。」

「是に於て、全國齊しく、兵を催し、以て義に赴きぬ。」

 

龍海:行政上の長が書かれていますが、同じ内容を他で見た事が無いのでウガヤ王朝における区分の可能性があるとだけしときましょうか。

 

「天別天之火明命五十世の孫、尾羽張大主尾羽張明照雄命を、東海惣國の元帥となし、武甕槌命五十三世の孫、日田地大主日田地武男命、經津主命五十三世の孫富佐地大主富佐地香取雄命の両神を、副帥となし、東海諸國の各初世太記頭、並に諸令・諸司・諸首・諸長を從へ、軍兵を率ゐて、東海口より進軍ましまさしむ。」

「旗甲野を蔽(かぶさ)へり。」

 

龍海:援軍が尾張日立香取の事が書かれていて、香取日立が追加されていますね、最後の一文は「軍勢の旗や甲が平野を埋め尽くした。」という意味で、大軍が押し寄せた事を表現しているようです。(神武長髄彦の軍勢は、大軍では無いと言っているようなものですね。)

 

「建御名方命五十三世の孫、諏訪大主諏訪建勇命を、東山惣國の元帥となし、稚武王命五十四世の孫大湖大主大湖佐久彦命、味粗託彦根命五十三世の孫、陸奥大主陸奥津彦命の兩神を、副帥となし、東山諸國の各初世太記頭・並に諸令・諸司・諸首・諸長を從へ、軍兵を率ゐて、大湖口より進軍ましまさしむ。」

「 旗幟天に彌(意味:ますます)る。」

 

龍海:さらに援軍です、諏訪近江陸奥が集まったようです、総説とは近江陸奥が増えています、最後の一文は「全文の旗や甲が埋め尽くしたに加えて、ますます旗や幟が天下にひるがえった」という意味でしょう。

 

「祖佐男命五十五世の孫、出雲大主出雲大神主命を、北越惣國の元帥となし、犬已貴命五十四世の孫、丹馬大主丹馬但波氣命、大物主命五十六世の孫、針間大主針間(はりま)宍粟(しさは)彦命の兩神を副帥となし、北越諸國の各初世太記頭並に諸令・諸司・諸首・諸長を從へ、軍兵を率るて、丹馬・針間の兩口より進軍ましまさしむ。」

「士氣益々奮揚せり。」

 

龍海:援軍の最後は出雲丹波播磨が援軍を出しています、総説ではざっくりと出雲でしたが、ここでは丹波播磨が別働隊であると書いています、最後の一文も韻を踏んでいて、元が漢文だと感じさせてくれます。

 

「賊軍は、要衝に占拠し、墻(しょう、意味:垣根。※中国語)を高くし溝を深くして之を防く。」

「既にして、雨軍相接して吶喊(とっかん、意味:突撃に移る前に、士気を高めるために、指揮者の合図に応じて声を大きく張り上げること。)鋭を争ふ。」

「矢石飛ぶこと雨霰の如し。」

「皇軍殊死して戦ひ、伏戸を越え流血を渉りて奮撃す。」

 

龍海伏戸の地名が分かりませんが、奈良県葛城市伏越という所があるそうなので、そこかも知れません、武器として「投石」があった事も注目されます、時代的には「石刀」も使われていた時代なので、中世とは少し戦いの様子が違うことを意識してみてください。

↑ 石刀

「賊の雄師、漸く潰を告け、関塞守をそ失ひける。」

「皇軍、勝に乗して進む。」

「勢風雨の如し。」

「諸將、牧馬(ぼくば、令制で、諸国の官牧が飼養している馬。)の首を並へて前に立ち、叱咤戦を督して追整す。」

 

龍海:「牧馬」の文字があり騎馬隊があった事を示唆しています、現在の日本の歴史感では馬が入ったのは後の時代だと考えて居るのが一般的だと思います、私はシャカ族(もともと騎馬民族)が日本へと入り、馬の有用性をよく知る人達がいるのに、馬が来ていない訳が無いと思っていますので、紀元前1世紀には馬が入って来ていると思います。

 

龍海:ただ頭数は少なく、この頃は將クラスだけが騎馬だった可能性が高いとは思いますが、小野一族は騎馬隊を持っていたと推測しています。(証拠はゼロです。)

 

「或は弓にて射殺し、或は剣にて突き斃(たお)し、或は石劍にて打ち砕く。」

 

龍海:出ました「石剣」! 考古学と一致しました!

 

「暴風の草木を吹き荒すが如し。」

「東海口第一に陥り、東山口第二に陥り、針間口第三に陥り、丹馬口第四に陥る。」

「諸將、益々馳騁(ちてい、馬に乗ってかけまわること。)曲折剣を舞はして指麾(しき)す。」

 

龍海:東海口・東山口・播磨口・丹波口が陥落しています、神武の軍勢より大軍だった事を証明しています、曲折剣(曲がったり、折れたりした剣)とありますので、銅剣もあったのでしょう。(鉄剣は大王クラスのみだと思います。)

 

「軍兵之に從ひ、轉闘(てんとう、意味:各所にめぐり戰ふこと。)長馳(ながばせ、意味:長いみちのりを一気にかけること。)向ふ所前なし。」

「賊兵、彼にも石劍にて亂打せられ、此にも剣にて突き斃され、枕骸(ちんがい、意味:折り重なった死。)原野を蔽ひ、僵屍(きょうし、意味:硬直した死体。※中国語)山谷を埋めてけり。」

「帰降する者は、大将分は首を断ち、兵卒は顔に入墨して放ちぬ。」

 

龍海:戦闘後の様子を描いていますが、たぶんに中国風の表現に感じます、顔に刺青をしている事が書いていて、「刺青」とは犯罪者(敗者)の烙印でもあった事が分かります。

 

龍海:魏志倭人伝にも「刺青」の事が書いていますが、全員が刺青をしていたのではなく、労役をしていた者が犯罪者の烙印で刺青をしていたのを見て、風俗の違いを感じて記録したように思えます。(呉の国でも刺青があったので、日本人は刺青をするのが一般的だったとする解釈が多くあるので、間違った解釈が定着しつつあると感じます。)

 

「東海口の元帥尾羽張明照雄命は副帥日田地武勇命と、更に進んて、大粟津口の圍を撃ち破り、賊の惣大將真佐勝彦命の本營を指してそ突進しける。」

「勢疾風の如し。」

「乃ち、石の大劍を打ち振りて急に接すれは、副將禍津亘理彦命は、惣大將を守護して遁れ走り、賊兵四散しで亦抗する能はす。」

 

龍海:総説と同じく尾張勢が総大将と副将の禍津亘理彦命を追い詰めていますが、遁れたとありますが、この後に討ち取るのでしょうか?

 

「吾兩帥、轉闘長駆向ふ所前なし。」

「賊十八將、遂に亦四方に遁逃しけり。」

「吾両帥、追撃して竟(つい)に、賊二大將を日榮山の麓に追及す、即ち元帥明照雄命は、大石剣を打ち振り、賊の惣大將真佐勝彦命を、脳天より骸骨まて微塵に打ち砕く。」

「又、副帥武勇命は、亦賊の副將禍津亘彦命を同しく微塵に打ち砕きぬ。」

 

龍海:おおっ! 尾張日立軍がやはり討ち取ったようです、尾張は男系大山祇ですが、その大将が「大石剣」というのは、銅剣でさえ珍しかった事が分かりますね、もしくは人によっては銅剣よりも大石剣の方が有効だった可能性もあるのでしょう。(紀元後119年の話なので)

 



「是に於て、東海口と東山口とを堅め居たる賊軍は、遁れて日榮山に立籠り、丹馬口・針間口をめ堅め居たる賊軍は、亦遁れ阿多後(愛宕)にそ立て籠りける。」

「則ち東海・東山両道の官軍、沓(くつ)り至り日榮山(今の比叡山?)をそ八重十重に囲みける。」

「乃ち四面より、肉薄して急劇攻め寄せ、伏戸を踏み越え殊死して戰ふ。」

「即ち東海東山兩道を堅め居たる賊將、悉く戰死し賊兵悉く出てゝ降る。」

「降れるもの、皆入墨して之を放つ。」

「日榮山悉く平く。」

「尋て、東海・東山両道の皇軍は、丹馬・針間兩道の皇軍と兵を合して、阿多後山を圍み、總攻撃を開始しける。」

「實に暗黒七年三月十八日なりき。」

 

 to be continued...

 

 龍海