さて、衝撃の一回目を終えて、前回のおさらいをすると神武東征とは「邇芸速日命を大王と仰ぐ勢力、ウガヤ王朝高千穂王朝に逆らい始め、大和を拠点として活動を始めた事による」ことを神皇記の記述は物語っていました。

 

 今回はその続きになります。

 

「木山國(きやまくに)の初世太記頭(はつせたきかしら)、長髄彦を惣司令となし、白木(しらぎ)國(一、作新羅國、又、白國。)より多くの軍師を語(かたら)ひ、中國(なかつくに)を根據(拠)地として全國を略取せむことを企つ。」

 

龍海長髄彦奈良県の「登美」を拠点にしていた事は知られていますが、そこは「木山国」と呼ばれる小国であったことが分かります、初世太記頭という単語はウガヤ王朝の定めた官職だと思いますので他では聞かない名前です。

 

龍海新羅から接触があった事が書かれていますので、ウガヤ王朝はやはり新羅に拠点があった事が分かります、中国(なかつくに)とは表現者によって意味が変わる単語ですが、この場合は「日本の中央の国」という意味ではないかと思います、だから素戔嗚尊がしたように、大和を起点として全国統一をもくろんだのでしょう。

 

「六月十五日、神皇皇族初め諸大神を高千穂の宮に集へて征討の事を議らしめ給ふ。」

 

龍海:この時は「天つ神王朝」が分裂し高千穂王朝としてあった事が書かれていますので、出雲王朝とは別の動きをしていました、なので高千穂王朝のメンバーが集まって軍議をしたようです。

 

「即ち先つ軍船二百六十艘を造り、皇族をして各部署を定め、諸將軍兵を軍船に分乘して、本島大陸八方の水門より攻入らしむ。」

 

龍海大和入りに対して、当時は八方に水門(港)があったらしく、包囲戦を計画したようです。

 

「賊魁(ぞくかい)長髄彦、河內原の高座山(たかくらやま)に據(よ)る。」

 

龍海:高千穂王朝の動きを察知した長髄彦は「高座山」に本拠地を置いたようです。(河内原は不明ながら、奈良県の何処かだと推定。)

龍海高座山で調べても適当な山が無いのですが、「高座神社」のある小山に本陣を置いたと思われます。

 

「今や、天の神皇の巡幸、皇族の巡撫(じゅんぶ、各地を巡って人心を鎮め安んずること。)を聞き、大に恐怖し、白木人と議(はか)り、兵を伏せて之を防きぬ。」

 

龍海長髄彦鸕鶿草葺不合尊が巡行していたので、新羅人と力を合わせ兵力を増員し防衛戦の体制を整えたようです、つまり攻め込んでいるのは高千穂王朝という事になります。

 

「針美(はりみ)(播磨)に着御ましませる皇太子海津彦五瀬王命は、賊情(賊軍の様子)を詷(とう、適切な意味は不明だが、見定める意か)はむとして河內川の水門より、孔舎衛坂(くさえさか)の坂■(本?)に着御ましまさむとするや、伏兵俄に起る。」

 

龍海:皇太子として五瀬命の名がある通り、最初の皇太子は神武天皇では無かったと思います(私も同じ考え)、ホツマツタヱによると五瀬命タガ皇君として「多賀宮(今の多賀大社)」を拠点として近江を支配していました、右の臣(将軍)には櫛甕魂命(この時はまだ大物主では無かったと思います)、左の臣(大臣)には天押雲(天児根命の子)で、次期天皇としての体制にありました。

 

龍海:ホツマツタヱでは長髄彦が「重の臣」とあり、二つの王朝の臣である事が書かれていました(今回、初めて理解できました。)、また長髄彦香具山(五十猛命のこと)の臣ともあります、この時の主君は「櫛玉火明命」であったと考えられ、櫛玉火明命は子供が出来ないので正室に代わり五十猛命の妹を妻に迎えますが、それでも子供が出来なかった事が伝わっていて、五十猛命の子の高倉下(たかくらじ、天香語山命)を養子に迎えますが、前妻に追い出されたと伝えています。(龍海:これが権力争いだとは思っていませんでした。ただの世継ぎ争いかと…)

 

龍海長髄彦は子供の出来ない王の櫛玉火明命の為、天児根命の家に伝わる子が授かる「(アヤ)」を盗んだ事が書かれています、この罪を犯したので、大物主(天葺根命?)が討伐しようとしましたが長髄彦は逃げたそうです。

 

龍海:ホツマツタヱには「龍治(たつた)の道は、並び得ず」とあり、龍王が支配する構造は一緒ですが、龍王同士が並んで統治する事は出来ない事を伝えた事を伝えているようなので、新羅ウガヤ王朝高千穂王朝も主流は「龍王」のようです。(ウガヤ王朝ウガヤ王朝龍王の経緯を辿った人物がいると思います、そしてその龍王は新羅を拠点とし、素盞鳴尊を娘婿に迎えて、鵜葺草葺不合命(素盞鳴尊)として奉していたと考えられます。)

 

「皇太子終(つい)に痛手を負ひ給ひき。」

龍海五瀬命の負傷は全ての伝承に共通しているようです、しかし日本書紀では「5月8日、茅渟の山城水門(やまき の みなと)に至った。ここで五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国の竈山にいたった時に薨じた。」とし、古事記では「五瀬命は紀国の男之(おの)水門に着いた所で亡くなった。」としているようです。

 

「淡木(あき)(一、作安記。安芸のこと、広島県)に着御ましませる。」

 

龍海:神皇記では負傷した五瀬命安芸へと避難した事になっています。(岡山県にある安仁(あに)神社(祭神は五瀬命 稻氷命 御毛沼命)は死んだ五瀬命を祀ったと考えられ、安芸で死んだ事を後押ししています。※岡山県は母方の玉依姫の拠点である玉一族が住む地。)

 

「四皇子(しのみこ)日高佐野王命(後の神武天皇の名前)變を聞き赴き援ふ。」

 

龍海:これは第四の皇子、後の神武が変を聞いたので赴き救援しようとした、と解釈するのだと思います(五瀬命を除くと三皇子しか居ない為)、五瀬命が負傷して初めて、神武は安芸へ救援に赴いた事が書かれています、記紀では最初から四皇子が揃って神武東征を行ったように書いていますが、神皇記では最初の遠征では「五瀬命」一人だった事を書いています。

 

「皇太子尋て(ふつうに)神避りましぬ。」

 

龍海:古事記では安芸に7年と伝わるのは五瀬命が亡くなるまで7年留まっていた事を伝えたものと考えられます、7年というのも四倍暦であると思いますので、実際には「2年弱」だと思います。

 

「乃ち海上より、急を東北巡幸中の父神皇初め、各地に着御ましませる皇族諸官神に報しにき。」

 

龍海:皇太子の五瀬命が亡くなった事は東北を巡幸中であった鸕鶿草葺不合尊にも伝えられ、全国に知らされたようです。(長髄彦の非道を訴えたのでしょう。)

 

「神皇大に驚き、即ち海上より伊瀬崎の多氣の宮に着御ましまし給ふ。」

龍海鸕鶿草葺不合尊は「寝耳に水」といった様子が伝わってきます、「伊瀬崎多氣の宮」とは今の「三重県多気郡」の事だと思われ、「斎宮」という地名が古代の水際に残されていますので、そこにあった「」だと推測します。

「されと、賊の大軍に遮られ、西國に巡幸ましますこと能はす。」

 

龍海伊勢多気の宮から西へと向かい大和入りを目指した鸕鶿草葺不合尊ですが、賊軍に阻まれています。

 

「各地より、皇族諸官神赴き援ふ。」

「以て神皇を守護し奉る。」

「乃ち、四皇子(しのみこ)日高佐野王命を立てて、皇太子となさせ給ふ。」

 

龍海:つまり最初は小規模な衝突だったものが、五瀬命が亡くなった事で「総力戦」の様子になってきた事を物語っています、そして正式に神武天皇が皇太子となっていますが、ここでも謎が残ります。

 

龍海稲飯命神武天皇の兄なのに、皇太子になれていない事です。


龍海:この謎を解く鍵は見た事が無いので、とりあえずスルーします。

 

「神皇は伊瀬口より、皇太子は久真野口より、挟み撃たせ給ふ。」

 

龍海:記紀の神武東征では鸕鶿草葺不合尊は登場しませんので、記紀とは違う内容を伝えています、鸕鶿草葺不合尊はそのまま大和へ入る道の「伊瀨口(伊勢口?)」から進入しようとします、神武天皇は「久真野口(熊野口)」から入り挟撃しようとなったようです、記紀にある「日に向かって・・・」どうのこうのという下りは登場しません、単純に大坂方面から攻め入るのは不可能だと判断しただけのようです。

 

「然るに、久真野口戦途に利あらす。」

龍海:しかし熊野口から攻め入るのは、良くなかったようです。

 

「伊瀬口征討の途次、偶々神皇、陣中に於て暴かに神避りましぬ。」

 

龍海:そんなおり、鸕鶿草葺不合尊が陣中で亡くなったようです、たまたまとあるので、本当に戦死ではなくて、病死かなにかだったのでしょう。(戦死の方が誉れ高いので、戦死なら戦死と書くと思います。)

 

「士氣索然(さくぜん、意味:空虚なさま)として振はす。則ち皇太子、檄(げき)を四方に飛はし、以て義に赴(おもむ)かしむ。」

「是に於て、全國齊(ひと)しく兵を催し、以て義に赴きぬ。」

 

龍海鸕鶿草葺不合尊が死んだ為に、高千穂王朝軍の士気は落ちて、このままでは勝てないと判断したようです、この時代は大王といえどもそれ程の権力は無く、各豪族のトップがどう考えるのかが大事な時代だったハズです、なので「(ぎ、意味:正しい道。道理にかなった事。)」を以て兵を出してくれと頼んだ訳です。(つまり、助けてドラエも~んと大して変わらない意味になりますね。)

 

 to be continued...

 

 龍海