神武東征のお話はとても有名ですが、かなり脚色も入っており疑問点も多く存在するものである事は、読んだ事がある人なら共通の認識だと思います。

 

 今回は別の記録媒体として『神皇記』を使用しての考察を加えていきます。

 原文は中国的な漢字や熟語が使われており、徐福の子孫が書いたとする伝承の後押しをしている事は先にお伝えした通りです、原文を併記する形で書くので皆さんにも見て頂けると思いますので出発しましょう~。

 

 神皇記には次の二カ所で神武東征の事が書かれています。

第一編神皇之巻 神皇 第一章 総説

第四章 後記 人皇  第一節 人皇創業  第一 東征の部

 

 最初の総説の方が史実に近いと感じていますので、それも気に掛けてもらえたらと思います。

 

「第一編神皇之卷 神皇
     第一章 總説
 神皇第五十一代、鵜茅葺不合尊(うがやふきあわせず)、諱(いみな)彌真都(みまつ)男王尊(ホツマツタヱでの斎名は「カモヒト」)、即位六年六月二十日、全國、地大(おおい)に震ひ、山岳崩潰、黒泥(こくでい)噴出。」

 

龍海鵜茅葺不合尊が天皇となって6年に、全国規模の大地震が起こったようです、今の日本と違いマントル運動が活発だった事が分かります、八百万の神を信仰していた日本人は「神が怒っている」と感じていたのでしょうか..

 

「翌年、天下大(おおい)に餓(うえ)う。」

 

龍海:紀元前200年を境に段々と稲作へと移行していたと推測しています。(縄文から稲はあるが、稲作は楚の熊一族の関係と推測)なので、大地震による稲作や畑作への影響があったようです。(私の計算では神武東征の年は紀元後119年なので、この少し前の話)

 

「神皇諸々の皇族を率て、全國を歴巡して救恤(きゅうじゅつ、意味:困っている人に見舞いの金品を与えて救うこと)ましましき。」

 

龍海:飢饉に対し、救済活動をしています。さすがに皆、各国の王族の子孫なので当たり前のように行動していたと推測出来ます。(龍王は全員国王、太伯系は呉、熊は楚、徐市は徐州、帰って来た人達は全員王族ですので、豪華なメンバーですね。)

 

「三十六年六月、禍津(まがつ)亘理(わたり、地名由来)(※注一:八十禍津日の子孫で越の國の亘理から大和の名張に来たとする)は、神皇第四十六代鵜茅葺不合尊諱種越彦王尊、五世の孫、真佐勝彦命を奉して反(かえ)す。」

龍海:ここは重要なポイントです! 記紀には出て来ない「禍津亘理命(まがつわたりのみこと)」という人物が登場します、これが事件の本当の首謀者のようです、先祖は八十禍津日命という、またよく分からない人物ですが、どうも素戔嗚尊の子供の一人のようではありました。

 

龍海:書き込みによると、「伊勢の度会(わたらい、伊勢神宮外宮の神官家だった。)の二見の文書(現物は未確認)」によると長髄彦はこの禍津亘理命の子孫だと書いているそうです。

 

龍海長髄彦はホツマツタヱには天太玉命の孫だとも出てくるので、母方は太玉系と考えられ、父方は禍津亘理命系なんだと思います。(私の予想がハズれてしまいました。_| ̄|○)

 

龍海:ここでまた難しいのが「ウガヤフキアワセズ王朝」の解釈です、我々のいう鸕鶿草葺不合尊とはウガヤフキアワセズ王朝51代の天皇にあたるらしく、その前の46代鸕鶿草葺不合天皇の5世の子孫、「真佐勝彦命」を天皇と仰いだ事による反乱という解釈になると思います。

 

龍海:じゃあ、その46代鸕鶿草葺不合天皇ですが、神皇記には「第四十六代種越彦王尊に至り、即位十年東南諸島餓う、神皇、神后と共に、其地方を巡幸して、之を賑はしめ給ふ。」としか無く、誰の事か分かりません。

 

龍海:しかし50代の鸕鶿草葺不合天皇とは出雲王朝の「コモリ」の事だと思われます、とすると46代は「素戔嗚尊」だと強く疑われ、もしかするとウガヤ王朝というのは、富士王朝無き後の最も長命な王朝の可能性が出てきました。(ワクワク(^_^))

 

龍海:どうりで知られていない訳です(納得)、何故ならその王朝の方が、もし正統なら天皇家の権威が否定される訳ですから、極力押さえ込む対象となったのでしょう。

 

龍海出雲王朝にはウガヤ王朝が同調していますので、連合に含まれている事は明らかです、つまり「高千穂王朝ウガヤ王朝」or「高千穂王朝」+「ウガヤ王朝」となると思います。(新羅が同調していますので、ウガヤ王朝新羅に主力がいたのかも知れません。)

 

龍海:51代が鸕鶿草葺不合尊なら、紀元前800年頃からある最も歴史の残る王朝の可能性が出てきました、今回は神武東征が目的なので、スルーしますが、とどのつまりはウガヤ王朝の意識の強い禍津亘理命→長髄彦vs鸕鶿草葺不合尊→神武天皇の大王争いだったとする見方が良いと思います。

 

龍海:そして「真佐勝彦命邇芸速日命」として良さそうです、邇芸速日命は十種神宝を父親から受け継いでいます、父親は「火明命(ムメヒト)」で皇太子だった人物です、ニニギが亡くなる時に「神詔」で「彦火火出見尊」を世継ぎに指名した爲に関係がねじれたと推測できます。(この時にウガヤ王朝系が弾かれた経緯があるのでしょう。)

 

龍海:まだ序盤ですが、思わぬ事が分かってしまいましたね~、だから歴史研究は面白い! データ化している段階では、ここまで気づけないのですが、考察に臨むと「雑学」というか歴史的知識が結びついていって、思わぬ結果をもたらします、考察している本人が驚く内容ですから、コレを読む人も面白いんじゃないかと思います。

 

龍海:長すぎると飽きるので、続きはまた後日という事で。

 

龍海