九鬼文書には徐市が日本へと渡来して以降(BC210年)に11組の天皇がいた事を書かれていました、記紀やホツマツタヱには無い記述なので、違う文献からも確認する必要はあるでしょう。

 

 神皇記徐市徐福の末裔が記録したと伝わるものなのですが、系統が違うので少しだけ期待してみたいと思います。

 

 神皇記では「高天原世天神七代」と表現されている期間が該当するようです。

 

神皇記の記述、

1.国常立尊 諱:農立比古尊

 蓬莱山のある蓬莱國(とこよのくに)を統治しろと命を受けて来日。

 弟の国狭槌尊と協議して、日本を十八州に定め「佐賀見・大原奥波を阿組東となし、遠久見・伊志尾(一、作伊志張尾。)・木山・川津・大淡海・南島を阿祖南となし、飛太野・越地前・越地後を阿祖北となし、田場・稲場・針美・穴門・奧附地見・前附地見を阿祖西となし給ひき。」※この時に四国は「南島」

 齢:150600日 ※未解読の年齢

 神后:神佐加比女尊 齢:153800日

 

2.国狭槌尊 諱:農佐比古尊

 齢:153600日

 神后:國狭毘女尊 齢:153300日

 

3.豊斟渟尊 尾茂太留尊諱農田古尊

 齢:153024日

 神后:阿夜加志古泥尊 齢:166104日

 

4.泥土煮尊 諱:日本比古尊

 齢:123030日

 神后:沙土煮尊 齢:151000日

 

5.大戶道尊 諱:農實比古尊

 齢:150030日

 神后:宇津比女尊 齢:150040日

 

6.面足尊 諱:穂千田比古尊

 齢:163014日

 神后:千早比女尊 齢:164004日

 

7.伊弉諾尊 諱:田仁知比古尊

 齢:153500日

 神后:伊弉冉尊 齢:153500日

 

 両者を比較すると、

 高皇産霊尊とは国狭槌尊の系譜が名乗っており、三代目の「キノトコタチ」から九代目の「オモイカネ」まで名乗っているので、7人は確実にいます、このうち何人が天皇をしたかは分かりませんが、神皇産霊(かみむすび)も高皇産霊尊の一人です。

 

 比較をする事で理解できましたね、結局は国常立尊の系譜と国狭槌尊の系譜が持ち回りで天皇をしていたのが実態だったと分かります、古事記には宇摩志阿斯訶備比古遅神として登場する人物が何者なのか、気にはなりますが、イサナギイサナミの時に日本の男王の天つ日嗣を決めたのでしょう。(それまでは、龍王の渡来時に天つ日嗣女王(皇后)のみ決まっていたようです。※誰からも不満の無い状況だったと考えられます。)

 

 徐市系が「男王の天つ日嗣」を、龍王系が「女王の天つ日嗣」を継承し、両王家が共に天神の「太陽と月」となったので、地神の大王として素戔嗚尊を担いだのが、最も初期の「アマテル(男)・ツキヨミ(大山祇)・素戔嗚尊」だったのでしょう。(ツキヨミとは月王家の男王だと思います。たぶん大月姫の婿。)

 

 しかし成立後わりとすぐに、アマテル(男)・モチコヤマタノオロチでの戦争で負け、「アマテラス(女)・ツキヨミ(大山祇)・素戔嗚尊」となり、出雲王朝の三人が「天神空神地神」の全てを支配したと解釈して良いようです。

 

 これらを整理すると、

①第一王朝期前期(BC210〜BC100)

 国常立尊と国狭槌尊の系譜が交代で大王をしていた時代。


②第一王朝期中期(BC100〜BC20)

 宇摩志阿斯訶備比古遅神(たぶんシャカラ龍王)が合流し、1代は男王となりましたが、女王(皇后)の天つ日嗣を立て、ツキヨミ(月王家の男王)として立場を確立し、大王からはすぐに降りたと考えられます。

 大王家はここから男王(暫定の天つ日嗣?)と女王天つ日嗣)のペアとなる。

 同時に男王・女王の二人で「大山積」となり、富士山を祀る権利と大王家の称号が「大山積」→「大山積皇大神

となったと思います。


③第一王朝期後期(BC20〜AD0)

 オモタルカシコネに何かあったと考えられ、豊受大神により暫定王家、イサナギイサナミが立てられる。


 その代行者を立てている間に、高天原を開き全部族を招集し日本のあり方を定め、男王の天つ日嗣として、天御中主神の長男家の末裔たる「アマテル(男)」を天つ日嗣と定め、神(人を導く存在)として「天神(太陽)・空神(天神の月王家)・地神」を定めそれぞれに大王を置く事で合意した結果、「アマテル(男、天神太陽)・大山祇空神:天神の月王家)・素盞鳴尊地神)」の三人が立つ事になります。


 アマテル(男)が皇后に「モチコ(九頭龍王の血筋)」を迎えた事で、月王家の皇后(天つ日嗣)を蔑ろにした形になり、モメた後に、瀬織津姫を皇后とする事で決着する。


 この結果によりモチコ(ヤマタノオロチ)を頭領とする反乱軍が立ち上がり、素盞鳴尊へと向かって戦争をします(この時には大山祇サクラウチは引退し、大山祇は素盞鳴尊へと受け継がれていたと推測します。)、この時に反乱軍の中にアマテル(男)も加わっていて、殺されたと考えられます。(推測)


④第二王朝期前期(AD0〜AD46)

 アマテル(男)・大山祇(サクラウチ)・素盞鳴尊


 天神(太陽)に属する部族は敗戦の責任を取らされ、月王家の皇后を太陽王家の天つ日嗣として受け入れ、月王家の皇后は倉稲魂命の娘の大食津姫へと受け継がれ、瀬織津姫アマテラス(女)となったと思います。

※ホツマツタヱにある「アマテル」は途中から瀬織津姫の事跡に変わっていると考えられ、九鬼文書にもその傾向が見えますが、アマテル(男)は居なかった事にされたと思います。


 そして、

⑤第ニ王朝期後期(AD46〜AD80)

 アマテラス(女)・大山祇素盞鳴尊

 ※三人共に出雲王朝の人間で、出雲王朝とは龍王・太伯系・熊一族・クナト王系・高千穂系の綿津見連合が母体


 ⑤の時には大山祇素盞鳴尊は既に亡くなっていたかも知れませんが、この時を日本という国の夜明けとして皆が同じ気持ちを共有していたんだと思います。



 一番若いアマテラス(女)が最後まで皆をしっかりとまとめ上げ、その為に徳島県アマテラス日本、「ア(始まり)ワ(終わり)→粟→阿波」となり、月王家の皇后は「伏見稲荷大社」となり、出雲王朝は「出雲大社」へと形を変えて現代に残る事になったと考えます。


 龍海