コロナ明けに四国の登山はシンドかった。

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 報告はちょと待って貰って、今日のお題は象形文字と神代文字です。


 メソポタミアを興した民族が日本人だという事は、もはや私の中では定着している事実になりますが、日本人の事を「楔形文字」で記録したのは、実は日本人では無いと思っています。


 しかしモチロンのこと、全くの無関係ではなくて、日本人に深く感化された現地の人で、日本語に近い言葉を話していた外国人だと推測しています。


 メソポタミアを興した日本人たちは自らの記録を残そうとはしていたかったと思われ、それは特別な事などしてはいないという意識が強かったせいだと思います。


 象形文字が生まれたのも、言語の違う民族との意思疎通の為であったと考えられ、必要に迫られて生まれたもので、ちょうど東京オリンピックの時に外国の人でも分かりやすいように生まれた「」、ピクトグラムと同じだと思います。(日本人は現代におおても、超古代と同じく象形文字を生み出したと言えると思います。)


 名詞などが、共通の単語は無くても、蛇や牛などの認識は同じですから、似せた絵をもって意思疎通をしたものが象形文字のはずなんです。


 だから、象形文字による記録がほとんど無いのは、同じ民族同士では言葉によるコミュニケーションが主体で記録用では無かったと推測されるのです。


 楔形文字での記録も、日本人が居なくなって初めて、その重要さに気付いた現地の人々が、記憶に残す目的で綴られた叙事詩がギルガメッシュ叙事詩であると思います。


 そう考えると、日本人には普通な事が、メソポタミアでは高度なもので、ちょうど宣教師がやってきて最新の科学や宗教を伝えたような事が起こっていたと思います。


 こうして記録を残さなかった日本人は紀元前に日本へと戻り始め、その時に部族ごとに伝える内容が微妙に違うことに気付いたのではないでしょうか?


 日本人の部族ごとの訛りはヒドかったと思います、それでも同じ様な言葉を話すので、同族意識はあったハズです、そして民族の記憶を比較した時に、違っていた為、記憶が変わっている事に気付き、その時の最古の記憶を神代文字にて残そうと考えたと考えます。(これ以上変質させないために、民族ごとに記録しようとなったと推測します。)


 それは功を奏し、中臣家の秘伝書として残ったのが「九鬼文書」であり、「ホツマツタヱ」であると考えます。


 ですから、民族の記憶はまだ残されている可能性があり、神代文字のままか、漢文に直されたものか、出て来ても不思議ではないと思います。


 今世に出ているものでも、正しく理解出来ていないので、アレですが、私が生きているうちに出れば、それも解読してあげないととはおもいますね~。


 龍海