美星町龍王八大龍王の一人と認識しましたので改めて、龍王吉備の国との関係について総合的に言及してみたいと思います。

 

 まず、前提条件としてちょうど卑弥呼の時代に日本の宗教は「神道」と呼ばれる宗教観に統一されていきました、これは中国道教徐市の先祖の黄帝に始まる教え)、イスラエルユダヤ教(日本語でなんと言っていたのか分からないので…)、インド初期仏教(これはユダヤ教ヒンズー教拝火教を含む釈迦の教え)が融合したものであると考えます。

 

 証拠として、八幡宮の「(ばん)」とは仏教の旗の事を意味しています、また八大龍王龍王仏教における概念としていますが、日本では主に「神社」で祀られています、他にも七面天女○○大権現○○菩薩梵天帝釈天などの仏様も神社で祀るところも多いのです。

 

↑ 仏教における「幡」

 

 この事から日本の神道とは富士山の噴火により滅亡した「富士王朝」の後を受けて、日本へと帰ってきた龍王系太伯系徐市系クナト王系熊一族系の連合国が宗教を融合して生まれたものだと言うことが出来ると思います、その中で釈迦族の生んだ「お釈迦様の教え」、初期仏教が主導的な役割を果たしたのは、龍王達の力が他の部族に比して抜きん出ていたからだと思います。

 

 今日は改めて八大龍王の位置関係と「きび龍王」の存在がいかに吉備の国を形成していったかについて言及してみたいと思います。

 龍王達が土着して支配領域の目安に「山の名」に龍王と付けたことは一目瞭然だと思います、火之迦具土神からは八人の山津見が出ていました、これは同じく山を支配領域に持つ豪族だと考えられる事から、100~500人単位の部族を率いる部族が山津見であるならば、龍王達が圧倒的な人員を擁していたことが、上図の分布からでも分かります。

 

 八大龍王(ピンクの○)を中心に龍王(青の○)、竜王(水色の○)の分域をぐるっと囲むと、「なんということでしょう~(ビフォーアフター風に・・)、ピッタリと吉備の国が浮かんでくるではないですか~」、となります。(播磨にも龍王が居たので、播磨の一部もきびの国として機能していたと考えます。)

 

 「きび」の名前も筆頭龍王の「娑迦羅(シャカラ)龍王」の日本名が「きび龍王」ならば、最早、疑う人はいないでしょう。

 

 太伯系の「○○山せん)」と発音する山を調べた時に、ヒットした山の数は「13山」ありました。

 

 龍王山のすべてを網羅出来ていなくても岡山県龍王山竜王山の数は「41山」もあります、これは香川県徳島県を含んでいませんので、純粋に吉備の国の最初期の数とも言えます。(吉備の国だけでも太伯系の3倍

 

 恐らく龍王のグループというのは日本で最大の勢力だったと思います、だからこそ最初から太伯系は戦わず合流して「綿津見(わたつみ)」として連合を組んだのだと思います。

 

 月王家の末裔釈迦族龍王を「大王」と仰ぐまとまりのある部族、その龍王たちが弱いわけがありません。

 

 それでも太陽王家の末裔たる「徐市系」に「天つ日嗣」の立場を認めながら実権は月王家が握っていた理由も分かるというものです。

 

 紀元後4世紀に四道将軍が送られた理由も、大和王権に不満を持っていた龍王太伯クナト王系熊一族系に向けての派兵だったように思います。(派兵といっても基本的には話し合いだと思います、何故なら不満だったのは一部だからだと思います。)

 

 龍王の研究は日本の古代史をひっくり返す発見だと思います、通常は認知され定説までの道のりが長くなるのが通常ですが、私は地域の皆さん及び私の研究に同意出来る皆で歴史を作ろうかと思っています。

 

 今後、さらに龍王の研究を進め、一定の資料をもって「日本に龍王が渡来して吉備の国を作った」という事に同意した人達の名前を列挙する本を作りたいなと思います。(要するに、みんなで歴史に名を残そう~!という事です。 世界で初めて、「龍王が日本へと渡来した説」を最初に認定し定説とした人々ということになると思います。)

 

 これは龍王の研究書という意味と同時に、賛同者を募って「定説」へと一気に昇華させたいと企画になります。(悪巧みですね、はっはっはっはっ・・・・・)

 

 辰年の今年の内に出来ればと思っていますが、時間的にはキツイかも、でも私ならスピード的にも可能だと思うのですが、みなさんはどう思いますか?

 

 形になり始めたらブログやホームページにでも情報を上げようと思いますので、賛同したい方は時々チェックをするようにしてくださいね。

 

 龍海