今日は岡山県は雨でしたが、興味には勝てず井原市八大龍王を確認しに行ってきました。


 もちろん、途中にある情報を拾う事も忘れてはいけません!(笑)


 最初に向かったのは、笠岡市にある龍王山です、ここは龍王神社などが無く、何の手掛かりもないため、よく分からない龍王山だったので、現地に行けば何か分かるかなと思った次第です。




 最初は龍王山の下を車で通りますが、「亀居」の地名に「太伯系が住んでいた」ことを感じて(山の中でとはイメージがかけ離れた場所です。)、麓にある山口八幡神社へと行って見ました。



 さすが田舎にある八幡神社です(良い意味で…)、人は少ない場所ながらも由緒は正しそうな雰囲気です、ここに「九頭龍王権現金毘羅大権現」の遙拝所があったので、この2つの龍王に関係する地だろうと思います。



 九頭龍王箱根戸隠にある通り、徐市系と仲良くした龍王です(富士山周辺にいた徐市系と仲良くしていたと思います。)、その遙拝所があるとすれば九頭龍王に関係していると思いますので、九頭龍王が最初に土着したのがかこの龍王山なのかも知れません。(その後に金毘羅大権現の庇護下に入った。)


 それで痕跡がピタッと途絶えているんだと思います。


 次に本命の八大龍王へと向かいます、途中にワラビを見つけ、またまた大量にゲットしながら向かうと、旧道から橋を渡った所に建物跡がありました。(写真は無しね。m(_ _)m)




 ここは昔、「夫婦淵」という観光地で料亭があったそうです、八大龍王へは国道313号の道沿いから登る所がありましたのでそちらから行けました。


↑ 八大龍王への入り口

 小山になっていましたので、整備されていれば淵が望めるような観光スポットだった事は想像出来ました。


 しかし、この場所に「八大龍王」を勧請する理由はなさそうです、正に峡谷という場所にあり「雨乞い」などはするメリットは無さそうです。


 小山を少し登ると見えてきました。

 「南無妙法蓮華経 八大龍王 鎮座」とあります、横に勧請した人の名前がありそうです。

 「永潤山 長泉寺」とあります、調べると

 この様な位置関係でした、この後に長泉寺(地図では平面ですが、八大龍王からは山の上の高原というべき土地にあります。)に行って見ると境内には八大龍王など痕跡もありませんでした、ですので長泉寺から分祠されたものでは無さそうです。

 長泉寺の近くには、

↑ 三宝大荒神

↑ 宝篋印塔と2つの祠

↑ 高星神社

↑ 懸額には星王大明神の文字が…

 非常に狭い領域ながら沢山の神社があります、何時の時代に、どうしてなのかは分かりませんが、この地域から八大龍王が移設されたのだと思います。

 観光の為に地元の霊験あらたかなものを置こうとしたのか、滝があるので繋がりなのか、料亭の所は私有地らしいので、氏神として八大龍王を祀っていたのか?(実はこの理由が一番可能性が高いと思います。)

 美星町龍王山竜王山の横に大倉龍王山があります、龍王山にしては珍しく地名を冠しているのですが(地名が大倉)、コレは実は龍王の名乗りでもあったと思えるのです。

 「」は太伯系の姓なので、美星町龍王山竜王山龍王は「(くら)」と名乗った可能性が高いからです。(この「くら」の分家が「(くら)」→闇山津見、かも知れません。)

 これは重要な事を示唆していまして、この倉一族と「児(子)・・・善女龍王の一族」の一族が合流して、倉子一族となり、「倉子臣」として和邇氏の系図に載っているからです。

 そしてこの倉子臣に因んで、私のご先祖の小野小町が城郭の名前を「倉子城(くらしき)」と名付けた為に「倉敷(くらしき)、岡山県倉敷市」となった経緯が一通り説明できるのです。(小野小町が城郭を構えたのは当時、「日間(ひま)」だったのですが、その前は「倉子島」だった事が伝わっていたのだと思います。)
江戸時代倉敷文人が地名を書く時に洒落(しゃれ)て倉敷の古名の「倉子城」と書いたのと同じく、平安時代に小野小町が洒落て、日間島の古名「倉子島」に因んで城郭の名前を「倉子城(くらしき)」と命名した訳です。時代が違っても知識人のする事は同じだということですね。(笑)

 太伯系と結んだ「大倉一族」、善女龍王と結んだ「倉子一族」、有力部族と縁組している時点で「八大龍王の一角」だと言えると思います。

 最後の八大龍王の一人は「美星町龍王山」の主で姓は「倉(蔵)」だったと思います。

 この付近には蔵本という姓がありますが、倉一族の流れではないかと思います。

 龍海