この度、「津山おくにじまん研究会」の方とお知り合いになり、いずれは津山には小野小町の領地があった事や、小野小町の家があったこと、そしてその末裔として津山の岸本家に生まれた「小野お通」が岸本を名乗らず「小野」を名乗り数奇な人生を生きていた事が世に出る事になると思います。

 

 かくいう我が家は湯郷(ゆのごう)にあった小野小町の末裔だったようですので、小野お通は身内という関係になります。(我が家の口伝から)

 

 私も小野小町の研究でも「巫女的能力」を有した小野小町が代々同じ名前を名乗っていた経験がありました、小野お通でも3人の小野お通が居た事を確認しています。

 

 こうなると小野家の巫女の伝統とでもいいましょうか、巫女的能力を有して生まれた娘は同じ名を継承する様子があります、そしてその巫女的能力が最も強かった女性が津山小野お通になるのです。

 

 では、津山小野お通がどのような人生を歩んでいたのか、津山押入にある「白神大明神」の碑文を元にして昔語をしていきたいと思います。

 

↑ 「白神大明神」を祀る白神神社

↑ 小野お通の事を伝える碑


「白神大明神とは、美作國の東南條郡押入下に邸を構える人、岸本彦兵衛尚俊の娘である小野お通の事をいいます、母は小野氏で、小野お通が生まれる前、金色のカラス(※小野氏は神武天皇の時にも金鵄(金色のトビ)と表現される空神の系譜です。)が岸本家へと飛び集まりました、カラスは家に二日ほど居た後に飛び去ったそうです。

 

 慶長六年(1599年)四月十三日にお通は生まれました、ちょうど夕方の事でありました、奇しき光が部屋に満ち、家の人は皆生まれた子が非凡な者であることをその様子から知ったそうです、お通は幼き頃よりエレガントで美しい娘で、顔などは人が見惚れ程美しいく、容姿が整っていて美しかったそうです。

 

 それでいて全く妖艶な色気というのは無く、賢く聡明なことが、様々な技藝を学ばずとも詳しく知っていた事からもうかがい知ることが出来たそうです。


 五歳にして和歌を上手に詠み、七歳にして機織(はたおり)も極めて上手であったり、十歳にして大人が読む様な書物に精通しています、そして十六歳の時には京の都で一番の身分が高く、家柄が非常に貴い人が、その美しさや聡明さを伝え聞き、妻にしたいと礼を尽くして求めてきたそうです。

 

 父の尚俊はこれを許し、結婚の日をえらび使者を帰しました。


 結婚式の当日の事です、夕刻の夫婦固めの盃を交わす段になった時です、花嫁であるお通がどこに居るのか分からなくなってしまいました、家の人々は大いに驚いて、人を四方八方に分けて探させたましたが、その手がかりは無く困っていたのですが、その同じ日のまだ夜もなかばの事です、お通はすでに家へと還ていたのです。

 

 京の都より津山の押入村までは凡そ五日程は掛かります、両親や親戚は集まってきて、どうして途中で還って来たのかと責め尋ねたそうです、お通がさも大した事じゃないかの様に言うには、両親の決めた婚姻なので子どもの私として拒むことは出来ないと考えたそうです。

 

 しかし俗な夫の嫁になど絶対に成りたくないし、お通としても我慢出来そうになかったので、ひとまずは形式通りに婚姻の場に居ましたが、夫婦固めの盃の時にその場を去ってきたいきさつを語るではないですか。

 

 両親は人を都まで走らせて経緯を確かめると、お通が帰ってきた時は即ち婚礼の時のことで、この時初めて父母兄妹はお通に神通力が有ることを知ったのです。

 

 そしてこの以後はたびたび神通力を発揮するよになるのです、お通は全ての祟りをとり除き、災いを祓いたいと思って、不思議な霊妙をもって病を治していったそうです、お通の名前は大いに遠近に広まって有名になりました。
 

 十八歳になった年にお通は、父母の元を辞し他国へと旅に出ることにしました、岸本姓を名乗らぬ罪を敢えて冒し、母氏を稱え小野お通と名乗ったそうです、天正の頃の話として、「小野お通という者有り、和歌を善くし、神本人とは別人なり、神との相關あらず。」とあるのは、豊臣秀吉の北政所の右筆であった「小野おづう」又はその母の「小野お通」の事だと分かりました。

 ※この二人は直接的には津山の小野お通とは関係ありませんが、最初の小野お通が浄瑠璃を発明しています、この小野お通は京都の小町小野家の血筋の可能性があり、小町小野家の血筋としては係累である可能性があるのです。小野小町と同じようにややこしい関係になっています。

 

 津山の小野お通が京の都に参った時のことです、お通のことが時の帝(天皇)に報告され知られる所となり、帝はお通を宮中に召して、はからずしもお通に会うことになったそうです、そうした所、唐突にお通は帝に言ったそうです、「すぐに祟りを取り除く儀式をしましょう」と、お通は帝の病は龍蛇の祟の爲であると見抜いたそうです、妾はこの祟りを祓う力がありますと帝に告げ、そこで十二天壇を日御坐(ひのおまし、清涼殿の東廂に畳二枚を敷いた所)に於いて作り、壇毎に水桶を置き、金銀色の幤帛(へいはく)を奉り、香を焚き神饌を供え、お通は衣装を整え壇前に立ちます、符を書き咒(まじない)を誦(とな)え、しばらくの間、桶の中に水が湧くという怪現象も起きました、そして小さな蛇が湧き上がり出て、たがいに咬み殺して死んでいったのです。




 帝の病気は快癒に向かい大いに喜ばれて言ったそうです、神通力を持つとは非凡なことである、顔や容姿もまた非凡である、朕は汝を本当に天女が姿をかえてこの世に現れる事だと知った、よって天皇が自筆にて書いた「白神大明神」と神号、之を賜うことになったそうです。(白神大明神の名前の由来)

 

 お通はこの後に后に召されて後宮に住むことになりました、容姿のあでやかで美しいさまは後宮第一の美人としてあったそうです。


 遂に帝の恩寵に惠まれ得て、宮中では皆が認めるほどの天人(天上界に住む人間よりすぐれた者)と稱されたそうです、しかしお通本人はお金などに関心が無く、名声や名誉なども興味なく、天皇からの寵愛に於いても深入りしません、はでに歌舞宴樂を行っても好きなそぶりを見せません、人知れず宮中を出て行ったそうです、壁の上に和歌を書き記して云うには、

  住み慣れし大内山を降り捨てて
  身のさが隠す草の菅ごも

 帝はこれをご覧になって言います、「さが」は「嵯峨」とに通ず、嵯峨草菴に隱れしはこれの意味であろう、そう考えて家来達に命じてお通の居を求めました。


 帝の使いは嵯峨の地に条件にぴったり当てはまる、新しき小庵に見える家を疑いました、柴戸をたたき之を訪ねると、ちょうど出てきた年若い下女が家来の質問に応えて云うには、庵主は小野氏です、今家にいませんのでといいます、今日必ず身分の高い人の使いが来るから、来たらこの和歌でお返事するので渡しておくれと聞いていたそうです、下女はそこで和歌一首を使いの者に指し出します、和歌はいいます、

  求めなよ花も紅葉もおのづから
  しとふ心のうちにこそあれ

 即ち使いの者は(帝の元へと)引き返して奏します、帝はお通が人の多く居る所に住むという気持ちが無い事を知りました、そうしてお通は世間から隠れ住みたいという希望を遂げることが出来たのです。


 嵯峨に隠れ住んで三年、神、お通は益々名声を高くし、山をよじ登り溪をわたり鳥が翔び獸が走るが如くあったそうです、お通は近くにある京の名山、愛宕の甚だ最も険しく雲が聳つ坂道に、修行僧の疲勞している様子を憐み、一町(距離の単位)毎に一石を立てました、表に記す山道のおよその距離、凡そ我邦の里法、三十歩(「歩」は長さの単位で一間(百八十センチ)の長さ、歩数の事では無いが一町は六十間(歩)が正しいが、原文は三十歩となっており、漢文を作ったのは有名な儒学者である「山本北山」なので誤字か篆刻ミスと思われる。)を定め町と為す、故に之の町石の謂とす、今猶存しています。(※この町石は現在でも残っている事を私も確認しましたが小野お通が設置したという伝承は今のところ見つけられていません。)


 後にこの地には天皇が訪れるようになり、それに伴って賑わう事になり、お通は近いこともあって今の家が住みにくい所となってしまった思いました、そして嵯峨の地を去り故鄕の津山へと帰ることになりました、帰ってすぐの寬永七年(1630)庚午九月十三日病卒、この時二十九歳だったそうです。


 この日について父母親戚がいうには、我が子のお通が人間界における命数は己に尽きました、今日、永遠に別れることになるにあたり、前から決まっていた事であるから、悲しんだり憂いたりする事はないといいます、我が子は神が人として姿を変えたもので、体は滅する事になりますが、魂は此の地において岸本家の守護神と為しあたるといいます、辞世の歌は、

  いつまでか(も)散らで盛りの花やあらむ
  今はうきよに秋のもみじば

 村の西南に清淨の地を占い壙墳を修め(白神大明神の地)、遺物を蔵す、太上皇はお通の死を聞き、大いに哀れみ、美作の侯(大名)森大内記長繼に勅して、墳上に祠廟を立ち神号は神親書(後水尾天皇直筆の神号書)は岸本氏に於いて存す者で、藥方(薬の処方)のメモ・抜き書きが数多く有り、神の如しおだやかな生活をお通は尊奉する所の愛染明王を蔵す、同国「鳥羽山万福寺(岡山県勝田郡勝央町植月北)」の僧は今なお靈験があるといいます。」

 

 以上が、碑文の伝える小野お通の事跡になります。

 

 ここからは研究の成果になりますが、『山州名跡誌』には京都府綴喜郡井手町にあった「玉章地蔵」を修理彩色した話が残っています。

 

 この地は六代目の小野小町小野氏野が井堤寺の別当であった橘氏へと嫁ぎ、暮らしていた地である事が研究の成果として分かっています。

 

 小野お通は先祖の小野小町が活躍していた京の都でその足跡を辿っていた時に井手郷で小野小町文張り地蔵である、玉章地蔵が穴が開いて壊れている事に遭遇します、天皇妃であった時と考えられ、修理の費用と地蔵堂を建立する費用を出してもらえた事は、天皇とお通の関係から考えると容易な事だったと思います。

 小町墓地蔵とある所が「玉章地蔵」があった所だと思われます。

 現在の「玉川寺」の所が該当する場所だと思います。

 

 それから碑文が徳川幕府の学者山本北山」によって書かれている事に注目すると別の事が見えてきます、小野お通の弟が徳川幕府に仕えていた事が分かっています、徳川幕府に仕えるようになった理由にも小野お通が関わっている事は確実だろうと思います。

 

 しかし同じく幕下にあった真田家にも「小野お通」の伝承がありました、浄瑠璃の発明者や、北政所の右筆としての小野お通、天皇妃として霊験譚を多く残す小野お通、同じ時代に複数の小野お通がいて、その書や絵が有名になっていくにつれ、小野お通の正体をつきとめる動きが徳川幕府内において起こったと考えます。

 

 その証拠として、津山の岸本家から江戸の岸本家へと移された、小野お通に縁のある天皇家からの下賜された品があった事を「岸本佳一」氏が「後水尾帝と小野お通」の中で書かれています。

※本は『小野お通』土居由乃著で津山の図書館に納められています。

 

 この事から岸本家からは津山小野お通の情報と証拠の品を、真田家からは小野お通の手紙と伝承を伝え、詮議した結果最低でも2人の小野お通が居たとする結論になった事を徳川幕府が保証する形で碑文の起草を山本北山にさせたと考えます。

 

 江戸の岸本家はその後、代官として栃木県真岡市に移り、同地に「岸本神社」を建てています、そして同地の歴史研究家の藤田眞一氏からは「先年、岸本武太夫から 8 代の子孫という. 方から真岡市へ岸本武太夫. 像が寄贈され、真岡市歴史資料保存館に保管されてい.」との情報がかろうじてwebに残っています。」という情報も教えて頂きましたので、像の寄贈者を辿れば小野お通の品が残されている可能性があります。

 

 また小野お通が直した玉章地蔵はおそらく彩色修理後には小町寺に安置されいる事が伝えられています、

 明治時代の廃仏毀釈により東福寺の塔頭、退耕庵に移されています。

 ↑ 退耕庵に残る「玉章地蔵


 吉川英治の小説、『宮本武蔵』にも「お通」が登場しますが、吉川英治津山小野お通という女性が武蔵と同じ時代にいた事を知らないのに小説へ登場させた事を自身で語っておられます。(これも一種の霊験譚ですかね?)

 

 そして小野お通の没後400年、係累の私が小野お通小野小町の事を研究して世に出すことも一種の霊験譚として良いのかも知れませんね。(笑)

 

 龍海