中国で秦に滅ぼされた「楚」の国の「熊」一族が日本にきているのではないかという仮説があります、実は私も「楚」の事は知りませんでしたが、「熊一族」はいるとは思っているのです。(備前市のあたりに熊山がある為)
主な理由ですが、
①古代語で米の事を「熊」と書くこと→熊一族が日本に米を持ち込んだから
②岡山県に熊山遺跡がありますが、大己貴命がこの熊山付近から出たとの伝承があること
③熊山遺跡は素盞鳴尊の墓(奈良時代の供養塚)と考えられる事
④熊襲(くまそ)はヤマト王権に逆らっていた→ヤマト王権は徐市(始皇帝の同族)の系譜なので、楚を滅ぼした一族とみなされていた可能性が高い事
⑤「楚」は「呉」と同盟をしていて仲の良かったこと→呉(太伯系)が日本へと帰っていた事を知っていたと思われること。(呉の人達に米作りを伝えた可能性もあると思います。
⑥ジャポニカ米のゲノム分析から中国の長江周辺からもたらされたとされていましたが、最新の研究から東南アジア→中国(長江周辺)→日本へと渡ってきた経緯が分かって来た事。
⑦長江周辺とはまさに「楚」の国であること。
⑧楚の国王が代々「熊○○」を名乗っていること。
⑨徐市が日本へと渡来してきた時の様子が書いてある『神皇記』には渡来時に「米」が生えている事が描写されていた。(徐市も米を知っていた。)
などが、挙げられますが、楚や熊一族について調べてみると研究がそれ程されておらず、日本には手がかりが殆ど残されていないからだと思います。
楚が滅ぼされたのは紀元前223年、その4年後の紀元前219年には国常立尊が日本へと来ています、この時に先行して来ていた「熊一族」から妨害を受けていた可能性は高いと思います。(国常立尊は淡路島に到着していた事が伝わっています。富士山を目指していましたが、後から紀元前210年に来た徐市が死んだ後に富士山にたどり着いている事が神皇記に書かれています。)
大己貴命が素盞鳴尊と熊一族の間に生まれた息子だから、弟ヤシマシノミ(オホナムチ)が天つ神王朝に合流する事を拒んだとも考えられます。(しかし出雲王朝は綿津見連合が母体なので、綿津見連合としては徐市達とも融合して統一王朝を作ろうと考えていた。)
さてさて、この様に熊一族が日本に来ていたとする間接的な情報は沢山ありますが、直接的な証拠も欲しいものです。
熊一族が渡来してきたのが、紀元前223年なので島や山の名にに痕跡があると思い調べました、「熊島」で調べると、