中国に滅ぼされた「」の国の「一族が日本にきているのではないかという仮説があります、実は私も「」の事は知りませんでしたが、「熊一族」はいるとは思っているのです。(備前市のあたりに熊山がある為)

 

 主な理由ですが、

古代語の事を「」と書くこと→熊一族が日本に米を持ち込んだから


↑ 生成AI 「楚の国の熊一族が米を持って日本に来た」 感心しますね。(笑)

岡山県熊山遺跡がありますが、大己貴命がこの熊山付近から出たとの伝承があること

熊山遺跡素盞鳴尊の墓(奈良時代供養塚)と考えられる事

熊襲(くまそ)はヤマト王権に逆らっていた→ヤマト王権は徐市始皇帝の同族)の系譜なので、を滅ぼした一族とみなされていた可能性が高い事

⑤「」は「」と同盟をしていて仲の良かったこと→(太伯系)が日本へと帰っていた事を知っていたと思われること。(の人達に米作りを伝えた可能性もあると思います。

ジャポニカ米のゲノム分析から中国長江周辺からもたらされたとされていましたが、最新の研究から東南アジア中国(長江周辺)→日本へと渡ってきた経緯が分かって来た事。

長江周辺とはまさに「」の国であること。

の国王が代々「熊○○」を名乗っていること。

徐市が日本へと渡来してきた時の様子が書いてある『神皇記』には渡来時に「」が生えている事が描写されていた。(徐市も米を知っていた。)

 

 などが、挙げられますが、楚や熊一族について調べてみると研究がそれ程されておらず、日本には手がかりが殆ど残されていないからだと思います。

 

 が滅ぼされたのは紀元前223年、その4年後の紀元前219年には国常立尊が日本へと来ています、この時に先行して来ていた「熊一族」から妨害を受けていた可能性は高いと思います。(国常立尊淡路島に到着していた事が伝わっています。富士山を目指していましたが、後から紀元前210年に来た徐市が死んだ後に富士山にたどり着いている事が神皇記に書かれています。)

 

 大己貴命素盞鳴尊熊一族の間に生まれた息子だから、弟ヤシマシノミオホナムチ)が天つ神王朝に合流する事を拒んだとも考えられます。(しかし出雲王朝綿津見連合が母体なので、綿津見連合としては徐市達とも融合して統一王朝を作ろうと考えていた。)

 

 さてさて、この様に熊一族が日本に来ていたとする間接的な情報は沢山ありますが、直接的な証拠も欲しいものです。


 熊一族が渡来してきたのが、紀元前223年なので島や山の名にに痕跡があると思い調べました、「熊島」で調べると、

 

 青森県は内陸部に「熊嶋」という地名がありますが、「」の部族なら分かりますが、その場合は二百年ほど後の事だと思います。(豊玉の事例から推測)
 
 瀬戸内海にある「小熊島」は島ですが、「」ならやはり時代が下がっていると思います。
 
 次は「熊山」を調べると、
 
 西日本に多く、綿津見を構成する一部族だった事が推測されます、そして一部は才ノ神猿田族と行動していただろうと思われます。(のいる山たから熊山となったなら、それは近世の話だろうと思います、古代は何処にでも熊はいて珍しくなく、東北の熊山は近世のネーミングの可能性もあると思います。)
 
 卑弥呼世襲足媛とケンカしていた狗奴国クナト王系猿田族才ノ神)が主流だったと考えていますが、ここに熊一族も加わっていて、狗奴国が解体された後に熊襲として抵抗していたとも推測出来ます。
 
 文献では今のところ証拠は無さそうですが、熊一族が日本に来ている可能性はかなり高いと思います。
 
 龍海