秦氏って渡来民族だと思われていますが、実は日本人で天皇家の祖といえる徐市(じょふつ)とは同族だった事が分かりました。

 

 私の研究から、

徐市→国常立尊〜オモタル・カシコネ

  →国狭槌尊〜豊受大神→イサナミ・イサナギとなり、

イサナギ・イサナミ→アマテル(男)となり、

アマテル(男)・アマテル(女・瀬織津姫)→天皇家

天下春命・瀬織津姫(女アマテル)→小野家

となっている事が分かっています。

 だから、天皇家の祖として国常立尊たちの名前が出てくるのですが、この徐市系譜が黄帝の系譜である事までは分かっていたのですが、今回もう少し詳しい事が分かったのでお知らせしたいと思います。

 

 黄帝の孫の顓頊のさらに孫娘が女脩といいますが、この女脩が生んだ子が大業といいます、大業の子は大費といって五帝最後の虞舜に仕え、夏王朝を興したに協力して賜わった姓が「(えい)」だったのです。

 

 嬴政とは「始皇帝」の名前ですが、始皇帝とはこの大費の子孫にあたるわけです。

 

 大費の子が二人いますが、兄は大廉といい、弟を若木と言いますが、西方を大廉が、東方を若木が収めたそうです、その若木が収めた国が「徐州」だった訳です。

 

 若木の末裔が「徐氏」で、大廉の末裔が「秦氏」です、秦氏から始皇帝が出ているので、徐市始皇帝は親戚になる訳です。(ドチラも姓は「(えい)」なので、始皇帝秦國による中華の統一にも貢献したんだと分かりましたね。)

 この徐市が日本にきて天皇になったのですから、日本中国皇帝との関係は悪くは無かったんだと思います。

 

 ↑ 生成AI「徐福 渡海 3100人」

 そして太伯の系譜は紀元前473年に日本にきていますから、紀元前210年に日本にきた徐市の系譜と太伯とが結びついて、「鶴と亀が統(す)べった」となったのが国常立尊〜オモタル・カシコネ(大山積の五代)までだと思います。

 

 実際には太伯系天皇も居たと思いますが、記録から消されたのだと思います、証拠としてはアマテルは紀元0年頃の人物です、紀元前210年~0年までで、イサナギイサナミを入れても6代210年も経過している事になっていますので、1代35年なんてありえませんから、少なくとも5代以上が消されていると思います。(国常立尊の系譜だけが残された。)

 

 そこへ龍王達(月王家のグループ)が渡来してきて、オモタルカシコネはたぶん流行病気により早世し、王家が空白になったので、暫定王家としてイサナギ・イサナミを立て、有力な部族達、国常立尊系高皇産霊尊系龍王系太伯系才ノ神系猿田族系たちにより話し合いをしたのでしょう。

 

 その結果、大山積(富士山を祀る権利を持つ大王家)を月王家シャガラ龍王の息子から出して、妻を国常立尊系から出し「大山祇」となり、暫定王家としてイサナギイサナミを議長として、「天日嗣(あまつひつぎ)」の制度を復活させて、太陽王家徐市系アマテル(男)、月王家が龍王系(釈迦族)の月読命(たぶん、大山祇サクラウチのこと)として両王家の並立となったと思います。(天皇家の記録で王家は一つとして伝えているのは律令制となった以後に書き換えたからだと思います。)

 

 そして4世紀になって日本へと来たのが秦氏ですね、始皇帝の子孫というのもまんざら嘘ではないんだと思います。(少なくとも先祖ではあるのでね。(笑))


↑ 始皇帝

 答えが分かると、「納得!」というしかないと思います、どうりで徐市に対して資金援助した訳です、ただの家臣じゃなかった訳です。(同じ姓、を名乗る同族)

 

 最初は、「不老不死の妙薬を探す」という理由で本当に日本へと行かせたと思います、しかし日本の王家が滅亡している事を国常立尊から聞いた徐市が、始皇帝に資金を出して貰う為に「不老不死」をダシにして2回目の渡航は日本の大王となる為に一族を引き連れて行く目的で資金を出して貰ったのではないかと考えます。(だから3100人の大所帯で向かった!)

 

 ところが出発する紀元前210年始皇帝は崩御しましたから、徐市はコレ幸いに日本の大王を目指して堂々と出発したのだと思います。(帰る気は無かった。)

 

 徐州に残された徐市長男〜四男六男は怒ったと思います(だって支配したら連絡が来る予定だったと思うからです、一族の多くを連れて行ったのですから。)、だからその末裔が月王家と手を組んで日本へとやってきたのが「徐福こと素盞鳴尊」だったのです。

 

 素盞鳴尊はたぶん、長男の系譜でしょう、七男の系譜のアマテル(男)など、これっぽっちも認める事は出来なかったのでしょう、だから二人はぶつかり、素盞鳴尊が勝って、アマテル(男)は亡くなったのだと考えます。

 

 そして、秦氏も日本の大王の立場を欲してやってきたと考えられます。

 

 その秦氏が支えたのが「聖徳太子」ですから、秦氏を通じて中国にもパイプがあったので、遣隋使で「日の出ずる処の天子より、日の没む処の天子へ恙無きや」という皮肉は、日本の大王の方が立場が上だと知っているからこそ送った言葉だと分かります。(この頃はまだまだ、日本から中国の勢力をコントロールしていたと考えられます。)

 

 つまり、楊貴妃も日本が皇帝へ送り込んだ娘だというのも真実味が増します。

 

 しかし、余計に複雑さが増したように思います。_| ̄|○

 

 これまでの謎は解けても、新たな謎が生まれるので、謎が尽きる事は無さそうですね〜。

 

 龍海