大ヶ島の分析が終わったので、今度は詳しく検証してみようと思います。


 まずこれまでの情報から、忌部氏が松江忌部大ヶ島忌部

備前伊部(いんべ)

阿波忌部


 となったと推測されていますが、松江忌部にはどのように伝わっているのか気になる所です。


 少し調べたところ、全く詳細は伝わっておらず、分かる事は

○出雲風土記に名前がでる

松江忌部にある忌部神社はかつて大宮神社と呼ばれた

忌部玉湯などは忌部神戸(いんべかんべ)と呼ばれた

○紀元前後頃には天太玉命が入り勾玉作りが盛んであった事(※天太玉命高皇産霊尊系の人物)

○玉の森は「櫛明玉命」の墓だと伝わる事となります、忌部はその後の印象から祭祀を司る部と認識されていますが、地名が何故忌部になったかは何も伝わっていない事が分かります。


 注目点は「大宮神社」と呼ばれていた所でしょうか、普通ならば「大宮」だから「大きい宮」があったので大宮神社となったと判断するのが普通だと思います。


 しかし移動先が「大ヶ島」という知見がありますので、大宮神社とは「大一族の宮」と判断すべきだろうと気付ける訳です、だから順番として大ヶ島を調べずに松江忌部を調べると、間違った分析になる事が分かります。

※他にも矢掛町に「黒宮」という神社を見つけ、「黒一族」がいたと分かり、「黒崎」などの地名の元になったと思います。黒媛もかな。


 ということは、松江忌部において既に名乗りを「」に変えていたと推測されます。


 また「忌部神戸(いんべかんべ)」という言葉から神戸(かんべ)は神社などに対して税を収めていた民ですから、呉王夫差の子のに対して税を収めていた事が推測されますので、玉湯忌部も呉の民であったと言えると思います。


 これらの情報から紀元前473年に日本に来た「」は自身の部の民(忌部)と共に「松江忌部」に暮らしていました、その末裔が「」を名乗り初め(王をもじったんじゃないのかな?)、その後に南へと降って行ったと推測します。


 その推測により、下の図を見て下さい。


 龍王山の調査の時に知った「神目(こうめ)」という地名が「神戸(かんべ)」に由来する説を利用すると、この神戸(かんべ)は「呉王の末裔」の為の神戸と考えられること、そして移住経路が、
松江忌部久米南町神目備前忌部
兵庫神戸
大ヶ島忌部阿波忌部

となり、王族の「大一族」は大ヶ島に居たと推測できるのです。

 どうでしょうか、途端に合理性が出てきましたね、この様にアプローチが正しいと次々に情報が出てくるのです。

 他の情報が出てくる事により解釈が少し変わる事があっても、大筋は正しいんじゃないかと思います。

 それと珍彦(うづひこ)ですが、

 天忍穂耳尊の末裔になり、太伯系ではありませんでした(太伯系の血筋には該当するとは思いますが、いわゆる天皇系になると思います)、神武天皇とは従兄弟にあたる関係でしたので、大和国造とは出世した事になりそうですので、出世の為に協力したようですね。

 なので、珍彦猿田彦は祀っていなかったと考えられ、元々、祀っていたのは天日鷲命伊都岐伊登美だと思います。

 ということは、三人の父は猿田彦、母は幸姫の可能性が高いと思います。

 この様子からは龍王達が日本に来た頃に引っ越している様に見えます、つまり来た時から歩調を合わせて動いている様に見えます。

 その後に、龍王才ノ神猿田族太伯の連合軍が生まれ、海を支配地として「表綿津見中綿津見底綿津見」という「綿津見王朝」となり、それが分かれ「出雲、吉備、ヤマト(九州、主に猿田族+太伯?)」になった可能性があるんじゃないでしょうか。

 高皇産霊尊日高見国(岩手〜相模)と広い地域を収めていたので、そちらは高皇産霊尊才ノ神猿田族の連合軍だと思います。(ただし猿田族のリーダー、猿田彦は西日本にいたので、緩い協力関係だと推測します。)

 少し様子が見えて来ましたね、素盞鳴尊が来るまでは連合軍が西日本を支配していたのだと思います。

 出戻り組の中で最も正当な王がシャガラ龍王だったと思います。

 しかし太陽で二大王家にするのが日本人の慣習なので、常にケンカする事になっていたんだと思います。

 大ヶ島の研究は役に立ちそうですね~。

 龍海