さてさて、大ヶ島の調査の続きです。(岡山市東区と瀬戸内市)
次に行ったのが「豊原南島神社」です、停める所が無くて、古い参道に架けてあった石橋の上に停めて行きました。(軽四でギリギリの幅です。)
ここも古い事が右側だけ縦岩が残っている事でかろうじて分かりました。
神社です。
柱だけの鳥居もありました。
懸額の文字は「八幡宮」なのですが、当然、元々は違うでしょう!(もっと古い神社です。)
神紋が○+□+三なのが引っかかる点でしょうか、○は天、□は地を象徴している事は分かっているので、それプラス三なのはどういう意味なのか? 三島が関係しているのでしょうか?
他は特に注目する点はなく、備前焼の狛犬がありましたが、「両方角ナシ」でした。(狛犬が無い時代の神社なので、後付は確実でしょう。)
次は神前(カムサキ)神社へと向かいました。
最古式の鳥居の縦岩を探すと、分かりにくい配置になっていました、多分、道路整備の時に動かされたんじゃないかと思います。
神前(カムサキ)神社の参道です、やはり古式の柱だけの鳥居もあります。
大ヶ島の神社は全て最古式の縦岩があるんじゃないでしょうか?(曰佐神社には無かったので、逆に縄文系と判断したんですよね。)
古式の柱鳥居の横に岩を御神体として祀っていました、面白いのはイサナギ・イサナミが小さかったのが笑えましたね。
この中では格下扱いなのでしょう。
右から「八海八大竜王」※子竜ですね、「丑神」、「三海水神」とあります、この三海水神の「三」が神紋に使われているようですが、誰のんでしょうね〜?
丑神ですが、干支の「丑」の字になっていますが、気づいて欲しいのが「紀元前に牛がいたのか?」です、私はこの丑神はメソポタミアの牡牛神(→牛頭人身(神農)→牛頭天王→都怒我阿羅斯等へと表現が変わり継承しています)を祀るものと考えます。(牛が居たのかは考古学に詳しい方に教えて貰いたいです。)
地名にも「牛神」という地名があるので、才ノ神と同様に、牡牛神の末裔は「牛神」と名乗っていた可能性は高いと思います。
住吉大社は綿津見三神で龍王+太伯+猿田彦+才ノ神+縄文系が連合して海を支配していたと今なら思いますので、その連合軍を示す神様ならば、あって当然でしょう。
大一族から生まれた神、大前というのがこの神社の頃にはいたんでしょう、地神なのは土地神だからかも知れませんが、所属する分類が地神だと思います。(人々は天,空,地+日,月の組み合わせに属する習慣があった)
狛犬は大きく立派でした(新しいけど)、小さいながら角アリで猿田彦か珍彦は「空神」に属していた事を示しています。
コッチは角ナシなので、空神と分かります。(東北には地神の神社が多いので、両方角アリが多いそうです。塩釜神社とか才ノ神神社とか。)
神前神社の由緒書きです。
この中で「珍彦(うずひこ)」が出てくるのは貴重だと思います、神武東征では水先案内人として名前が出てきますし、その後は「椎根津彦(しいのねづひこ)」となって倭国造になりますから、これまでの歴史観では吉備から国造を出した事になりますが、そんな単純なものでは無いと思います。
吉備は味方しなかったのに、珍彦が協力したので、どちらかというと、裏切り者に近いのだと思います。
恐らくそれにも背景があり、豊玉(豊と玉の連合軍)が神武天皇の母体なので、豊一族に属していたので協力しない訳にはいかなかったが正解だろうと思うからです。(大ヶ島は豊一族が支配していただろう経緯はさんざん見てきましたから分かりますよね。)
………ヽ((◎д◎))ゝ
んが、画像の制限が来てしまいました、仕方ないので次に続きを書きますね。
龍海