↑ 「古代の大ヶ島」として下の画像を貼っています。
前回は失礼しました(笑)、しかし混乱した様子を伝えるのも生きた歴史研究の姿を見せているので、有用ではないかと考えそのまま公開します。(笑)
前回の紹介時に「太伯」の地には私の中で、「複合的に古代の情報が残されている」という結論になりました、なので今回は地名や山名から古代史を紐解くのに必要な情報をピックアップしてみました。(ちゃんと、前準備♥)
結論から言えば、古ければ紀元前1400年前と推測される地名を見ることになりました。
まず、この地域が「島」である為には17mほど沈降しなければならず、逆に言えば長い年月を掛けて17m隆起した為に陸続きとなっています。
隆起の具合は地域によりかなり違っています、伊予平野などは2000年で20mほど隆起しているようです、岡山県は2000ねんで10mほど隆起していると思われますが、この島には「硫黄山」という名の山もあるので、火山活動(マグマの供給)が活発な所だった可能性があります。
※仮に他の地より1.5倍隆起したとすれば、紀元前266年より前が島だった事になりますので、太伯の末裔が来た時期とすればちょうど良くなります。
では何故島だと言えるのか、「大ヶ島」という地名、及び「豊原南島」という神社名が残されている事によります、一番左上の島には「北島」という地名が残されていましたので、元は「豊原北島」であった事が推測されます。
その上で「豊」とは豊島にいた豊一族が一時期支配した為に「豊原南島」へと改称されたと考えます、その上でそれより前が「大ヶ島」と呼ばれたと考えます。
この「大ヶ島」の漢字は「大の島」という意味ですが、地名に「曰佐(おさ)」があるので、「大一族」の長(おさ)が「曰佐(おさ)」にいたと推測されます。(長(おさ)という呼び名ならば南方系でしょうか?それとも縄文系?※メソポタミア・インド・エジプト系は「主(ぬし、あるじ)」を使う)
後日、現地を確認して曰佐神社の様子からは龍王系では無さそうでした、なので一先ずは太伯系またはドラヴィダ系日本人としておきましょうか。
グーグルマップを見ると山上には大賀島寺という所があったので寄って見ると、少し分かった気がします。
大賀島という名前から元は「大」という一族だったものが、大賀島という地名が有名となり、大賀氏になったと推測されます。
なので一番可能性が高いのはやはり縄文系(日本に残っていた縄文人)の「大一族」が大賀氏となった地だと思います。(大賀ハスで有名な人がいます。)
なので、もし大一族が太伯系ならBC473〜BC266年頃と推測されます。(この島からは縄文土器も見つかっていますが、今回はスルーしています。)
[大ヶ島]・[曰佐(おさ,地名)]・[曰佐(おさ)神社]
○紀元前100年よりも前に「大の島」だった事から「大賀氏」が生まれたと考えられる。
○大賀氏は縄文系と思われる。
○曰佐神社の様子からは、太伯系・龍王系の様子は残されていなかった。
[豊原南島神社]
○紀元前0~100年頃、豊一族の島となる「王ヶ島→豊原南島」、豊+原(一般名詞か?)なので、豊一族の支配地とも考えられます。
○古い地図には「豊原村」とあるので、住民は村名から神社名となったと思っていると思いますが、確認したら元は「八幡宮」の懸額が鳥居にありました。
○豊一族は龍王系、クンビーラ(金毘羅)の系譜と考えられる。
[天御中主神社]
○紀元後2世紀 忌部氏の系譜により建立(岩長比咩よりも後と考える)
○天御中主神(ノア・ウトナピシュティム・伏義)の子孫が氏神として建てたと考えられ、伊都岐によるものと考えられる。
[神前(カムサキ)神社]
○神=カムという読みから、「アイヌ」の系統によるネーミングだと分かる。
※直島には「才ノ神」の地名があるので、才ノ神系の人が名付けたと推測できる
○神前神社の伝承、「当社の創建年代は不詳であるが、備前国神名帳(総社本)に神前神社7、山本氏本に従3位神前明神と記してある旧社である。
中古社号を神崎大明神と称し、御祭神は猿田彦命であったが、明治2年社号を旧号の神前神社に復し、明治9年9月15日珍彦命を祭神として奉斎した。
神武天皇の御東征の海路を御嚮導された神であるので例祭の相嘗に高島神を祀り、36台の神饌を献ずる例がある。
明治44年12月神饌幣帛料供進神社に指定された。
本神社から南方の海岸に亀石という亀に似た岩があり、珍彦命の乗った亀の化石であると尊崇し、亀石神社と称している。また、付近には神武天皇を祭神とする乙子神社や、神武天皇の三兄を祭神とする安仁神社が鎮座している。」
とあり、猿田彦を祀っていた事から、才ノ神と同じドラヴィダ系日本人が祀った神社だと分かりました。(猿田彦の系譜の者)
この島が神武東征の「珍(うず)彦」との接触地であると分かる、亀に乗る事から珍彦は亀神の系譜と思われる、そして猿田彦を祀っていたのも珍彦である事から、猿田彦が亀をシンボルとする可能性がありますが、私は猿田彦が太伯系と結びついていると考え、とりあえず珍彦は亀をシンボルとしているとしておきたいと思います。
○亀石神社の亀石の場所は古代は海中になります、亀石を見ると波の浸食をあまり受けていないので、誰かが作ったわりと近世のものである可能性が高いと思います。
↑ 亀石神社の亀石
[松江伊都岐(いつき)神社]
○伊都岐島姫と区別するために「松江の伊都岐」と表現されている。
○島根県・鳥取県・岡山県北部には「オイツキ様」と祀られる女神のことだと思われる、「山神(やまのかみ)」に仕えると伝承する事や「眷属がキツネ」である事から、倉稲魂(うかのみたま)と同じ系譜の女性であると思われ、この伊都岐の末裔が「伊都岐島明神」となったと考えられます。
○山神とは「大山祇」が祀られているので、サクラウチ以降の人物となると思います。(紀元後1世紀)
○伊都岐とは「斎(いつき)」の事で、音で「いつき」と伝えたらしく、漢字を知らなかった部族である事が考えられ、ドラヴィダ系日本人の女性だと思われる。
○これらを総合すると、紀元後1世紀頃の女性で部族はドラヴィダ系日本人、猿田彦もしくは才ノ神の系譜で巫女であった女性と考えられる。
○天日鷲命と同時代の女性なので、伊都岐と天日鷲命は兄妹だと考えられる。
[伊登美宮]
○伊都岐の妹が家を構えていた地と考えられる。(この女性も天日鷲命の妹だと思われる)
○伊都岐とは別人だろうと思われます。
[太伯山]・[太伯]
○祖先の偉人の名を冠したと考えられる。
○忌部氏によるものと考えられる為、忌部氏とは「太伯系」と推測される。
○忌部とは忌の為の部(べ)の民と考えられ、和邇日子の為の部の民、和迩部氏と同じだと思います。※「忌」は呉王夫差の子供の名前
[麻御山(オミヤマ)神社]
○祭神が「天日鷲命」で阿波忌部氏の祖とされる人物なので、祀ったのは忌部氏だと考えられる。(紀元後1世紀頃の人物なので、祀られたのはそれ以後)
[ダンガメ山]
○ダンガメとは広島では「カブトガニ」を示す言葉、「大きな亀」を意味するとも伝えられる。
○山名に使われる理由は「シンボル」だからだと考えられる。(※龍王達のシンボルとして「龍王山」と付けているのと同じ。)
○「かごめかごめ」や「鶴は千年、亀は万年」という言葉から推測して、メソポタミアの時代にはあったと考えられ、「亀神」の系譜が忌部氏であり、「珍(うず)彦」の伝承でも亀に乗って来たとあるのは、亀船があった為だと考えられる。
※和邇氏には「ワニ船(小型の帆船で船足が速い)」、賀茂氏には「鴨船(大型の船らしい)」、亀神の系譜が「亀船」という具合に、氏族のシンボルを船の呼び名にしているようです。
○ダンガメ山の下にあるのが天御中主神社なので、亀神の一族が祀った神が「天御中主神」だと考えられる。
[松山]
○松山の山名は、松一族も居た痕跡と考えられる。
○愛媛県の「松山」も島根県の「松江」も松一族の開発した地だと思われ、備中松山も同様だと考えられます、今は知識として留めておきます。
○松野連(まつののむらじ)は元は松一族だと考えられ、本流の可能性は高い。
[正儀(まさき)]※地名
○「まさき」と伝承され、後から漢字が当てはめられたと考えられます。
○総社市の「麻佐岐神社」との関係が濃厚だと思います。
○伊都岐と兄妹の可能性は高いと思います。
※天日鷲命の名前が「麻佐岐」の可能性は高いのかも知れません、だから、この島から阿波へと渡り「阿波忌部」が興ったと考える方が正しそうです。
○備前の伊部(いんべ)も同様と考えられ、松江忌部→大ヶ島忌部→備前伊部・阿波忌部という系統図になりそうです。
[西幸(こう)島]・[東幸島]・[幸地]
○幸一族が居たことを示しています。
○出雲の富家ではクナト王と幸姫が結ばれ「サイノカミ」になったと伝え、出雲では幸の神と書くことを伝えていますが、「才ノ神」というという地名は東北に多くあり、伝承通りでは無いと考えられます。
恐らくは猿田彦と幸姫が結ばれ、生まれたのが「伊都岐・麻佐岐・伊登美」の三人だと考えられ、母親のいた幸島にて生まれ、そのまま母方の領地に育ったと考えられます。(だからドラヴィダ系の読み方もあり、幸姫とは龍王系のハーフだと推測します。※幸姫も才ノ神の系譜の可能性は高いと思います、豊+才ノ神の娘。)
[久々井]
○久々井の地名は、まだファーストインプレッションながら、木の精霊とされる「久久能智(くくのち)」と関係があると思います、厳島には「久久能智の聖木」というものがあり、そこの案内板には、
↑ こちらからお借りしました。
とあり、八大龍王が関係している名前のようです、「久久」とは「九九」と同じで九は漢字で「玖(呉音:く)」とも書きます、すなわち太伯系の呼び名であり、龍王は「九」を最大の数字と考えていました、だから「九九」とは「最大掛ける最大」となり、恐らくシャガラ龍王の英知を指して最大限の美称が[最大(玖)×最大(玖)の(能)智者=久久能智」へとなったのだと思います。
その久久能智から教えて貰った知恵から作った井戸のある地を「久々井」と名付けたと考えます。(だから名付けたのは太伯系、久久能智は龍王系)
[宝殿]
○兵庫県に石の宝殿があり、そこと関連しているのは明らかでしょう。
○それとの関係を調べるのは大変なので、今回はスルーします。
※石の宝殿を祀るのは「生石(おうし)神社」ですが、岡山市にも生石神社とかつては「生石(おうし)」の地名もあったようなので、関係あると思います。
[硫黄山]
○大ヶ島の火山活動が、他の地より活発だった可能性を示してくれていますので、隆起が2000年で15mとする根拠の一つになります。
○西大寺一宮は現在「安仁神社」ですが、かつては「瀧神社」ではなかったと思われ、祀られている瀬織津姫は初代大山祇サクラウチの長女になります。
[大雄山]・[雄久山]・[高雄山]
○山名にある「雄」は部族名と考えられ、「大雄」は本家、他は分家の関係と思われます。
[豊原]
○曰佐(おさ)の内陸部にあるので、曰佐(おさ)の一族と豊一族が結ばれて生まれた部族が「豊原」となり、次の支配者となったのだと思われます。
[阿知]
○阿知使主(あちおみ)の渡来は応神天皇の頃なので、紀元後360年頃と思われます、倉敷市の内海は「阿知の海」と呼ばれたのは、阿知使主の上陸地に由来すると伝承されており、その一部は大ヶ島に上陸し土着したと考えられます。
○坪相の地名から、賑わっていたので、領地の開発に加わった人達が阿知の名を付けたと考えられます。
[山ノ神]
○これは大山祇を指すようですので、支配地を示すものか、信仰を示すものか判断には迷いますが、おそらくは両方の意味を兼ねて、ざっくりと大山祇の配下の島であることを象徴しているのではないでしょうか。
[坪相]
○「相坪」という表現と概念があります、「アイツボ(aitsubo). 古代の条里制の地で一坪一町の田畑を複数の者が分割所有すること。 別名 合坪. 急上昇のことば. 猫の手も借りたい.」とあるので、発展が激しかったので阿知の一族にも協力してもらった事を意味しているような感じでしょうか。
[鹿忍(かしの)]
○『牛窓町史 民俗編』には、元の将軍が放った猛毒の矢が落ちたところがこの地であり、その矢を奉納するために山田彦が春日神社の鹿になって忍んでやって来たことから、といったことが書かれている。
○春日神社と関係しているので、割と古いかも。
※春日神社は天児根命(あめのこやね)を祭神としますが、両親が猿田彦(イチチ)とアサカ姫なので、ドラヴィダ系日本人の神社になります。
[子父雁(こぶかり)]
○不明でした。
【総論】
古代は恐らく縄文系により「大ヶ島(おおがしま)」と呼ばれていたが、そこへ龍王系の豊一族が合流し「豊原」一族が生まれ、豊原南島と呼ばれるようになった、その後に亀神の末裔として忌部氏が住んでいたと考えられる。
大山祇の傘下にあった、天日鷲命(麻佐岐)や伊都岐・伊登美たちと忌部氏が移住してきて「太伯山」などの地名が生まれ、龍王系+才ノ神系の「幸一族」も土着したと考えられる。
シャガラ龍王は「児島」を拠点にしていたと考えられるので、大ヶ島の左半分(児島側)が文化の中心地になっている様子が図からも分かります、ドラヴィダ系の存在が伊都岐や麻佐岐や猿田彦を祭神としている様子からわかるので、出雲の猿田彦系と松江忌部(呉王夫差の子の部族?)との末裔と考えられ、猿田彦よりの文化を伝えていると思います。(古代はそれほど明確な違いは無かった可能性もあります。)
直島は「京(みやこ)」と呼ばれた様子があるのは、太伯系・才ノ神・猿田族・龍王達・縄文系の合流地(高天原)として機能していた為と考えられ、大きく五つの民族が習合していた為と思われます。
太伯系は亀神の一族とも習合している様子があるので、本流を「大亀」、支流を「亀」をシンボルとする部族もあった様子がある。
完全に切り分けるのは難しそうなので地神として「亀一族(エア・エンキの名跡を継ぐ末裔)」があった認識に留めおくとします。
以上が総論となりますが、古代の各時代、各部族の痕跡が残る地が「邑久(おく)」の地であるかも知れません、大ヶ島は「オーガ」、邑久は「オーク」と読める名称はモンスターの名前と関連していて異世界ものが好きな龍海にとっては、関係を感じずにはいられません。
案外ルーツが同じである可能性は最早否定出来ないでしょう、海外の妖怪やモンスターは日本人の概念を元にしている可能性が高いのですから、日本の中で概念の元となった民族名があっても可笑しくはないからです。
世界の伝説は日本からしか解く事は出来ないのかも知れませんね。
なお、今回の総論でも理解するのは難しいと考えますが、がんばって自分なりの解釈を見つけてください。
という訳で、大ヶ島→豊原南島とは紀元前から文化交流の中心地の一つであった事は確実でしょう、おかげで太伯系は紀元前473年以降に日本へと来ていた事も足跡として確認できます。
そして、太伯系へ地神のエア(エンキ)の名跡が伝わった事も確実でしょう、つまり中国の呉の国の時にはエア(エンキ)のグループが太伯へと合流していたのだと思います。
岡山県から解ける日本の歴史というのも良いものですね~。
龍海