↑ 「古代の大ヶ島」を追加しました。
相生の龍王山を断念した足で岡山県岡山市東区にある「太伯」へと足を伸ばします、この地は中国の呉の国を興した「太伯」の末裔が開いた地という触れ込みだったので行ってみようと思っていました、ここでは重要な気づきが多く、皆さんにも参考になるのではないかと思います。(多すぎて混乱しますが………)
では場所はどこかというと、
岡山県南部で、児島の右上です。
龍王達が日本へと渡来してきたのが紀元前1〜2世紀という予測がたってきましたので、山陰(島根県や鳥取県側)へと土着した太伯の子孫が、瀬戸内海へと進出していた所へ龍王達が合流したという予測になります。
太伯は「姫(キ)」という姓だったと分かっていますので、伏義や神農の子孫、つまり日本人だと分かっています。
そして紀元前の日本は人口が少ないので広域を支配していたと思われ、山の頂が見える地域を支配領域とし、山名に「支配者」の名前を冠していると仮説をたてています。
その後に支配地に名を冠するようになっていった(狭い領域が支配地となっていった)と思っていますので、地名の方が後の時代だと考えてください、では「太伯」はというと山名に「太伯」だと聞いているのと、地名にもなったのは後からだと考えられます。
では、太伯周辺の地図を見てみましょうか、
「神社」で検索すると、パソコンのブラウザでは上図のように表示されましたが、スマホのアプリからだと、もっと沢山表示されます、同じグーグルマップでもブラウザとアプリでは表示が変わることを知っておいた方が良いでしょう。(これが鍵になる事があるので知らないと出会えないものがあります。)
まず最初に「麻御山(おみやま)神社」というのに行きました、「麻」を「お」と読ませる読みは珍しく、呉音では「メ」、漢音では「バ」とあるので、語源が中国系ではないことを示しています。
そこで怪しいのが「アイヌ語」ですが「麻」は「カギ」と読むそうです、じゃあ麻を「お」と読ませるのは? サンスクリット語も違いそうですので、ここで謎の民族の痕跡をみつけます。(言語学者が見つけていないので、スルーです。)
狛犬は「角有り角無し」で「空神」に属す神社のようです、祭神は「天日鷲(あめのひわし)命」で阿波の忌部の祖神になるらしいので、どうも出雲系のようです。
日(太陽)+鷲で「天空神」に属すことを伝えていますね。
天日鷲命の別名に麻植(おえ)神という名があるので、麻御(おみ)山もどうやら、忌部氏の系譜によるネーミングのようです。
1世紀(天日鷲命)より後の神社のようです。(アマテル(男)の頃なので十分古いんですけど、調べているのがその前なので、ん~~少し若いって感じですね。)
次に向かったのは「天御中主神社」です、天御中主といえば「ノア、伏義、ウトナピシュティム」など、日本人の歴史の中で中興の祖と呼べる人(日本では始祖の様に扱われています)で、まさに話題のど真ん中にいる人物です。
意外にも祀られている所は少なくて、この神社がこの地域のキーポイントになる予感があります。
↑ 天御中主神社、一番奥が社殿ですが、手前から普通の鳥居、古式の「柱のみの鳥居」、そして縦型の岩の鳥居と三種類の鳥居が全部揃っています!!!!♥
こうして見ると分かります、社を残した様式が少し新しく、岩長比咩神社の近くの福江前山遺跡のように基壇を設け、その前に縦岩を並べるものが最古式のようです。
そしてこの二つの神社は同じ概念で作られていることから、同じ宗教観を伝えています、つまり民族的には近いという事になります。
多くの地名や山名、島名を見ていて気づくのが最初は中国と同じで、漢字1文字の単姓だったんじゃないかということです。
その後に父母の姓を両方名乗り復姓となり、苗字とは単姓の組み合わせなんじゃないか思うようになりました、福田という姓ならば「福」+「田」という具合に復姓だと考えられます。
※小野の場合は最初から「おの」なんですけどね~。
私の出した仮説は、「父方と母方の両方の姓を名乗っている」というものです、そもそも「姓」というのは近親婚を防ぐために「村」の名前としてついたもので、他の村(他の姓)と婚姻させる為に生まれたもののようなんです。(中国の概念)
だから、途中から父方(又は母方)の姓だけを名乗るようになり、単姓になったと考えます。
それは日本へと来た太伯の子孫も同じで、女から生まれた新しい一族を単姓で「○」と名付けると、新しい氏族が生まれます、だから玉比咩神社でも豊玉姫の幼名が「玉比咩(たまひめ)」(玉一族にいる時)と表現され、大人になると「豊玉姫」と復姓になっています。
じゃあ「豊」という一族が居たことになりますが、それを示す地名が「島の名」としてあるんですよね~、それが「豊島(てしま)」だと考えられ、お母さんは玉一族、お父さんは豊一族となり、大人になってからは豊玉姫となった訳です、豊玉彦も同様でしょう、同じお父さん、お母さんの兄・妹なんだと思います。
別の側面から豊玉姫はシャガラ龍王の系譜とクンビーラ(金毘羅)の系譜でもあると推測されていますので、龍王達の子孫が中国風な姓を名乗った証拠でもあるのだと思います。
上図を見ると分かります、山の名はそれぞれ「臥竜山と壇山」で支配したときは「臥竜」と「壇」という名のりだったものが、「玉」と「豊」へと変化しています、これは娘が領地を継承し新しい部族名を名乗ったと考えられます。(土地の継承を娘が継ぐなどは平安時代と同じですね。)
こうしてみると、山や島の前につく漢字が「一文字」の所が目立つ様になります。(それまではそういう視点で見ていないので……)
○広島 ・・・ 広
○本島 ・・・ 本
○手島 ・・・ 手
○牛島 ・・・ 牛
○向島 ・・・ 向
○長島 ・・・ 長
○釜島 ・・・ 釜
○大槌島・小槌島 ・・・ 槌
○直島 ・・・ 直
いくらでもあるので、止めたくなりました。<(_ _)>
だから「福一族」から派生して、「福井」、「福田」、「福本」、「福島」などの名字が増えていったのではないでしょうか、福一族と井一族が結婚して生まれた一族が「福井」と名乗ったする仮説になります。(ということは、福一族も太伯系とは限らず龍王系の可能性が高いのでしょうね。)
ちなみに「七福神」って福一族から生まれた7人の偉人(神)なんじゃないでしょうか。(勘ですけど)
日本人が名字が複数字が多い理由がここにあるのかも知れません、これに環境からくる漢字、山・川・谷・丘などが加わると無限ともいえる名字が生まれます、逆に漢字一文字の名字は古代から変わっていないのかも知れません。
この視点でもう一度太伯の辺りを地図で見ると、
この太伯という地名について、古代は「大伯国」と称されているようですので、古代からの古い国だと分かりました。(『角川日本地名大辞典33岡山県』654Pに載る情報だそうです。)
ダンガメ山も気になる名前です、岡山弁かとおもいきや、広島ではカブトガニを「ダンガメ」と呼ぶそうです、これが訛って笠岡市では「どんがめ」と呼ぶそうです(どんくさい亀じゃないようです)、ダンガメには「大きい亀」という意味も伝えられているようですので、「亀石神社」の亀などは、この神崎神社の伝承に由来していて、山の名前とは関連していないようです。(亀石神社の亀のある地は古代には海の中なので、割と近世に作られたものと推測します。)
ここで一つ思いつくのが「かごめかごめの歌」です、「鶴と亀が統べた」と解釈する所もあり、この解釈では鶴は徐市系を指し、亀を太伯系を指すならば、国常立尊からオモタル・カシコネまでは徐市・太伯による統治だったものが、「後ろの正面だあれ」となり、月王家(太陽の反対・後ろ)の龍王が日本へと渡来していますので、後ろの正面とは「月王家と龍王」と言えそうなんですよね、加えていうと、龍王の傘下に入った太伯系が龍宮(シャガラ龍王の宮)へと導く話だとすると、太伯系(大亀がシンボル)がシャガラ龍王(龍宮)への案内者としてあり、シャガラ龍王への取り次ぎ役であった事を伝えていることになります。
この仮説通りに「太伯系が大亀」とする伝承があれば、ほぼ確定の説になり、龍宮伝説の半分は解釈が可能となるのです。(オー怖っ!)
んじゃ、チョット検証してみましょうか。
↑ 「大亀」で検索した結果です、「ダンガメ」では検索にヒットしなかったので仕方なくです。(隠岐の島にあるのが印象的ですよね。)
じゃあ、仮説通りなら分家筋は「亀」をシンボルにしているので、「亀山」で検索してみましょうか。
↑ 「亀山」の検索結果です、富士山周辺は無く、「綿津見(龍王系)」の支配地に被っているように見えますね。
う~~~ん、どうも正解っぽい雰囲気ですね、「松野連(まつののむらじ)」は呉王夫差の末裔を称しており、姫氏の系図を残しています。
伝承では九州に土着したと書いていますが、これは松野連の系譜がそうであっただけで、本体はどう考えても山陰へと土着したと考えられます。
↑ これは日本へと来た最初の「忌」の漢字を検索した結果ですが、出雲の「松江忌部」が多くヒットしています。(狭い領域に集中してあるので、一つに見えているだけです。)
そして阿波忌部は「天日鷲命」が興したので、時代的にはアマテル(男)の頃となり、少し後の時代(紀元後)です。
アレ、繋がりましたね、太伯の「麻御山神社」には「天日鷲命」を祀っていましたし、忌部って太伯の系譜と考えて良さそうです。♥
いやぁ~想定外です、予想外の所につながりました、つまり太伯の地は忌部の誰かが開いた土地のようです、そしてこの地には「松江伊都岐神社」なるものがありました。
この地域は「安仁神社」が名神大社として有名ですが、これは神武天皇によるものなので時代が若いことが分かっています。
↑ 松江伊都岐神社の参道です、鳥居の後ろに古式の柱の鳥居があるのは天御中主神社と同じです。
↑ 社殿には特に特徴はありませんでした。
これは神社の左手に祀られていた石ですが、真ん中の石には「地鎮大神」と彫られています、天御中主神社にも「地鎮大神」と彫られていた石がありましたので、元々は皇祖神として「天御中主神」を祀っていた事を示しています。
鳥居として縦型の岩がありますが、現代では意味がわからず祭神のように祀っています、つまり古代の信仰を継承しているようです、「神」とは一柱、二柱と数える単位が「柱」なのも、その存在を縦型の岩にて表現してきた日本人の歴史を表していると思います。
↑ こちらが昔の参道だったようです、鳥居の縦岩がありますね。(鳥居からが神域という意味があります。)
じゃあこの松江伊都岐神社の祭神はというと、「五瀬命と若御毛沼命」(ドチラも神武天皇のお兄ちゃん)となっています、これは安仁神社の摂社になった後に変わったと考えられ、元の祭神は「伊都岐」で「松江」とは古代の地名だと推測されます。(十中八九、島根県の松江のことでしょう!)
出雲の忌部は「松江忌部」となっていて、やはり「松江」の名を冠しています、つまり「松」という一族がいたようです。
そう考えると「松山」の地も松一族ですよね、そして「伊都岐」とは厳島神社にその名残が残されています、厳島神社のかつての祭神は平安時代の頃で「伊都岐島大明神」となっています、これは「女神」と伝承され、全部で三人の神様を祀ってたようです。
そして、タクシャカ龍王と七面天女からの考察が生きてきます、七面天女の夫または兄は「毘沙門天」と伝えられています、小野小町と同様で七面天女も一人のことだと思っているので情報が集約されています、だから七面天女の別名「厳島女」も併せて考えると、
○タクシャカ龍王の娘→①七面天女
※母親が松江の伊都岐かな?→伊都岐(斎)の立場を継承
②二代目シャガラ龍王の息子→②毘沙門天
笠岡にて、
①七面天女と①毘沙門天(二代目シャガラ龍王)が結婚し子供が生まれ、
②七面天女(二代目),②毘沙門天(三代目シャガラ龍王)となり、
②七面天女=二代目の伊都岐、②毘沙門天=麻佐岐(まさき)と名付けられます。
麻佐岐は総社市の麻佐岐神社の地にあって、初代の伊都岐が松江伊都岐神社の地にあったと考えられます、つまり母方は太伯にあった豪族となり、太伯系の人間だと推測出来るのです。
松江伊都岐神社の南には「正儀(まさき)」という地もありますので、この地にいた事もあるのかも知れません。
もう一つ重要な事は北海道に「伊都岐島神社」があり、アイヌが祀っていた伝承が残っている事です。
googlemapで「伊都岐島神社」で調べると、現在は三カ所しかありません、「伊都岐神社」で調べると2カ所、「松江伊都岐神社」と「於伊都岐神社」しか出てきません、これは足取りを調べる上では重要な情報となるでしょう。
おおっと、ここで更につながりが…、「於伊都岐神社」からの情報で岡山県の妖怪、「御伊都岐」との関連が指摘されています。
オイツキ様は「山神」に仕える神使で、ウサギに似ていますね、んっ!山神といえば、
先ほどの正儀(まさき)の東の山が「山ノ神山」でした。ん~~~繋がったぁ!
繋がったけど、逆に複雑になりました!
まずオイツキ様は岡山県真庭市や島根・鳥取の神様だということ、だから松江伊都岐というのは島根の松江に居た「伊都岐」となり、丁寧に呼ぶと「お伊都岐」となるようです、そしてその祭神は保食神・倉稲魂となり、ウケモチ系の人物になるようです。
つまり山神とは「大山積」となり、大山積は国常立尊から五代を指しますので、大山積は徐市と太伯の連合と証明できる気がします。(情報過多により、頭の中で整理しきれていないので、皆さんは多分、頭がグラグラしていることでしょう。)
ちょっと、私も脳みそが沸騰してきたので、今回はこれで終わります。
しかし出雲の勢力は「太伯」の後裔氏族で、太伯系は「地神」としてあった事を示しているようです。(だからクナト王系と共闘していた、という事は太伯系はユダヤ系なのか? あ~、脳みそが沸騰する。)
でもウケモチ系の消えていた存在が浮上しましたね、ちょっと頭を整理してから、お伝え出来ればと思います。(こんなに混乱したのは久しぶりです、新情報過多ってやつですね。)
龍海