少し前に木花咲耶姫神社福南山の登山についてご紹介しましたが、今回は同じ地名の「福江(意味:福の港)」という地にある「岩長比咩神社」に行って来ました。


 近くには「さいのかみ」という祠も残り、古代の重要地である雰囲気はありましたが、全くの想定外で、ここまで古いとは思いませんでした。


 「さいのかみ」にはがあるたけで、特段何かを示すものはなく、「そんなものだろ〜」と思いながら、次は素盞鳴神社に向かいます。

 ここには基壇が3つ有り、一つは小祠が何個も置かれ、もう2つは素盞鳴尊(荒神)と木花咲耶姫の神社でした。

 この二人は二世代ほど離れているので、一緒にいた可能性は低いとは思いますが、ゼロではないので一応参考にしておきます。(素盞鳴尊神社岡山県にはかなり多くあり、珍しくありませんから、写真は撮りませんでした。
m(_ _)m)

 さて問題は次でした、「岩長比咩神社」には徒歩でしか向かえず、道べりへ車を停めて100mほど川側を通り山へと向かいます。

 入り口は意外に整備されてて、「おっ」と思わせます。

 階段を上がると広い敷地があり、建物があった事を感じさせます、しかし神社とはいいながらも「石積の基壇」と言った方が良い感じで、徳島県の五角形の石積に時代は近い気がしました。

 私の感覚では住居跡に「供養塚」を建てた印象がありました。

 階段ピラミッドとも言えそうな雰囲気です、でも作ったのは6〜7世紀じゃないのかなぁと思います。(十分古いですけどね。)



 新しい榊もあり大事にされている様子があります。

 龍王山でもありましたが、ここでも嫁さんが地図で見つけたのが、福江前山遺跡です、神社から近く、歩いて行けそうです。

 この後の予定があったので、速攻で歩いて行きました、勘で山へ入る道をみつけ、勘で竹藪を抜けて山へ登ると、「正解ルート」だったようで、遺跡へとたどり着きました。

 大きく2つの石組みの祠がある感じでした。

↑ 右側、中には祠が安置されています。
入り口の二本の縦岩は神社の最古の鳥居の形式のようです、実はこの後、この様式のものを見る事になります!(要注意!)

 瓦による祠で、〇〇山神社とかろうじて読めました、山は「松楠山」というので、松楠山神社と彫っていたのかも知れません。

 左側の祠です。

 2つ並んであるので、お墓のようにも見えます、低いながらも山頂なので可能性はあると思います。

 勿論、石長比売と関係するとは思いますので、旦那さんと石長比売かな?と思ったのですが、そういえばと配置を思い出しました。

 この位置は木花咲耶姫神社にも近く二人の社の間にある山なんです、父親は大山祇マウラですから、瀬織津姫アマテル(女)となり天空神の女王に、素盞鳴尊地神大王となるまでは、日本の大王だった人物になります。

 だから山頂に葬られていても、問題のない二人だと思います。(古代は大王クラスじゃないと山頂には葬られなかったと考えます。木花咲耶姫瓊瓊杵尊(ににぎ)の皇后ですしね。)

 そして祠は2つ、もしかして二人共岡山県で亡くなったの?

 全くの想定外なのですが、岡山県は龍王の作った国であり、福江は太伯の子孫、「福一族」の居た地だと思われますので、福一族と共に晩年を過ごしていた可能性は排除できません。

 そして出雲を構成する民族には明らかに太伯系が多く入っていると思います。

 だから素盞鳴尊が勝った後の岡山県は超安全地帯であり、魚の美味しい優良地であった可能性は高いと思います。(富士山の噴火も収まっていますから、祀る必要もないしね。)

 少し前なら福一族って何?ってなってた所ですが、今なら出雲を構成していた有力な民族だと言えます。

 遺跡の発掘情報次第では「もしかして」もあるかと思います、皆さん、岡山県は古代史の重要な場所になりつつありますよ!

 龍海