↑ 歴史研究の成果を公表しています。
以前にスマホのGoogle Mapで検索した結果では「梵天神社」の検索結果が3カ所しか表示されませんでしたが、パソコンを使って検索すると、もう少し表示されましたので、今日は「梵天」について考察を加えてみたいと思います。
秋田県の「三吉神社」には「三吉梵天祭」がある為か検索に出てきますが、祭神に梵天はなく、祭事のみが伝承されているようですので、今回は外します。
三吉大神は秋田で生まれたと伝承しているので、梵天の息子の可能性は高いのかも知れません。(その後の考察から、大梵天王→梵天王→梵天大権現→三吉大神の流れが「梵天」となった可能性が高くなったので付記します。)
表示されたのは
岡山①越出神社(梵天王宮)
岡山②梵天神社(備中福山 猿田彦神社 摂社)※狛犬が「猿」
岡山③大梵天王 ※狛犬が「猿」
大阪④天神社(大梵天王社)
旧名が大梵天王社、今の祭神は天照皇大神・伊邪那岐・伊邪那美
京都⑤梵天奉納所 ※梵天信仰によると思われる
愛知⑥梵天神社
千葉⑦梵天塚
茨城⑧梵天大権現
長野⑨梵天帝釈天
新潟⑩梵天様と船石
となりました。
注目すべきは①②③⑦⑩だと思います。
①は「梵天王宮」とありますので、梵天王の本宮だと思います、残りは「行き宮としての社」と考えられ、短期滞在目的に建てられた「社」の址が「神社」になっていると考えられますが、いずれも神社である事は特徴の一つだと思います。
もう一つ、最初は「梵天王」だったのに、東へ行くと「大梵天王」へと変化しています。(岡山市が最初)
これには理由があると思われ、梵天の顔は4つ有り、3つの顔が増えています。
梵天の称号が最初は一人だったものが、三人増えた為、梵天が大梵天へと出世した様にも見えます。
しかし大梵天王のいた庚申山に行った後では全く解釈が変わる事になりました、最初の梵天とは「大梵天王」で間違いないと思います、そして梵天王の親は大梵天王、梵天大権現の親は梵天王となり、四人の梵天の系譜が梵天像の造形へと残されていると考えます。
しかし仏教ではこれを全く別の解釈をしています、「色界における初禅天・大梵天・梵輔天・梵衆天」の4つの梵天を4つの顔として表現していると解釈されているようです。
梵とは「ブラフマン」のことであり、本来は欲の無い人格(私の解釈では人間由来の存在ではない)を表現するようですが、色界とは人間の世界の事なので、この色界で「食欲と淫欲」が無くなった人物とされています。(霞を食べて生きている仙人と同義語のように思います。)
つまりは「食欲と淫欲」を克服した聖人が名乗った称号と解釈できますが、そんな人はいないだろ~と思う訳です、その場合は「人間をやめています」。
ですので、ずっとその状態だった訳ではなく、悟りを開き一瞬でもそんな状態になった人の事を指すんだと思います。(実は20年前くらいにそんな状態になった事があるので...、実体験に基づきます。)
それから②の備中福山の猿田彦神社に「猿」の狛犬があるのはシャレを効かせて猿の狛犬にしていたと解釈していましたが、猿田彦に猿の狛犬はまだ分かりますけど、③の大梵天王に猿の狛犬があるのは腑に落ちません。(仏教にも猿との関係を示すものは無さそうです。)
これは大梵天王も猿に関係する人物である事を伝えているように思えます。
狛犬自体は古いものではないでしょうから、その由来となった元に何かがあるハズになります。(これは仏教に由来する伝承では無く地域に伝承するものだと断言できると思います。)
仮説として考えられるのは「大梵天王が猿田彦の血筋にあたる」可能性でしょうか、その場合「母は龍王の娘で父が猿田彦」又は「父が龍王で母が猿田彦の娘」ということになりますね、才ノ神から分かれた系譜が猿田とするこれまでの仮説との関連を示すことになります。
「梵天」の地名を調べると下図のようになりました、
クナト王系は東北に集中します、それに合流する形で梵天の地名が拡がっている様は、部族名として「梵天一族」が存在していた様子を示しています、伊達政宗の幼名などは「梵天丸」といいますが、実は梵天一族の血筋を引いているのかもしれませんね。
繰り返しますが、クナト王系の地へ移り住んでいる様子がありますので、「大梵天王は父が猿田彦、母は総社の龍王山の娘」という可能性が高いという結論になりました、ということは大梵天王の息子が梵天王、梵天大権現と一族をなし、その後に東日本へと移住したという解釈が正しそうです。
この解釈では人物名だった称号が仏教の概念へと解釈が変わっているように思いますが、実際には大梵天王→梵天王→梵天大権現→三吉大神と世代を継いで生まれた概念が仏教の中で受け継がれたものが、個人名ではなく梵天の住んでいる世界と解釈されているだけのように思えます。(日本で生まれた概念なので、インドでは想像にまかせて解釈されたというのが正解のような気がしますね。)
⑩の新潟の伝承では「民たちに知識を与えていた」事が伝わっており、そして⑦の千葉県で亡くなった可能性があるように思えます。(生誕地は岡山県で、終焉地が千葉県で梵天塚、一対で伝承している事は重要だと思います。ただしどの梵天かは不明です。)
また美星町には「金比羅天」という表現が残っていて、クンビーラが天部に属していた痕跡を伝えていました、クンビーラは仏教では12神将の一人ではありますが、天部八衆にも入っておらず、日本における実在の人物ではありますが、インドでは情報のみが残る為「神様」として扱われている事が分かります。
日本では釈迦の教えを固く守り、インドでは釈迦の弟子達が仏教を広めていく過程で宗派が分かれていき大乗仏教が生まれたと考えて居ます。
最初期の仏法僧(仏と、その仏が説いた教えと、その教えを奉ずる僧、または教団)を護っていたのが「龍王の末裔たち」で自身達は日本にありながら、インドへも頻繁に訪れていたと考えられます、だから日本には「三宝荒神」という概念がうまれ、代々が仏教の守護者としてあったものが、最後の守護者に「素戔嗚尊」がいて、荒ぶる神という印象が強く、三宝荒神がただ「荒神」と略されるようになっていったと推測出来ます。
龍王達と才ノ神の一族は倉敷市児島と笠岡市に地名を残しています、猿田族は広島県に猿田の地名があるので、猿田彦と龍王(竜王)の娘との間に生まれたのが「大梵天王」だとすると、猿田族の「猿」をシンボルとしていた可能性があるのかも知れません。
全国に残る「猿田」の地名は「猿田族」の存在があったことを示していると思います。
↑ 猿田の地名
↑ 才ノ神の地名
才ノ神と猿田の地名が東北に多いのは、やはりクナト王の系譜が才ノ神と猿田族とに分かれた事を示しています。
その上で龍王と合流した猿田彦が猿田彦を名乗るようになっていったのは必然だと思われますので、猿田彦の一人が月王家へと養子(実子かも)入っているのも当然なのかも知れません。
ただし猿田彦も才ノ神も仏教徒ではありませんので、宗教上は対立点があります。(といっても、モーセの教えの上に釈迦の教えが加わっているようなので、対立点は小さいとも思います。)
そこをどう読み解くかが古代史の理解への鍵となるんだと思います。
龍海