↑ 小野小町の研究成果も載せてます。

 今日は大梵天王に行きました、感想としては何故この場所を、誰も注目してないの? って感じで、古代史における重要な地という印象しかありませんでした。


 まずは場所を見て下さい、古代のこの地は標高が10mほど低く(隆起したと考えられる)、吉備の中海の岬だった位置だと分かります。


 どうして10mほど低かったといえるのかは、世界の海面変動は最大で5mほどな事や、隣の三須という地名は増水時(台風や高潮など)には水に浸かる地名であることを小早川秀秋が突き止めているからになります。(私は小早川秀秋の説に同意しています。地名の原典は中国にあります。)

 もう一つ、吉備津彦の伝承でも海の中だったことが伝わっているので、間違いないと考えます。

 すぐ南には造山古墳があり、古代には重要な地であったことは一目瞭然となる所です。(周りにも龍王山だらけの地です。)

 山の中腹にある駐車場にとめて、参道まで行き下に向かってパシャリ!

 この山は「庚申山」といい74mほどですが、結構登る感じがあります、そして上に向かってパシャリ!

 最近、山に登ってばかりなので、これぐらいなら楽勝になりました、<⁠(⁠ ̄⁠︶⁠ ̄⁠)⁠>
 階段を登ってパシャリ!

 階段の上に建物があり、門の様に見えます、右には看板、左には何かの跡地のようです。

左側

左側にはお通夜堂というのがあったそうです。

右側

 ここは戦国時代、備中高松城の水攻めの時に吉川元春が本陣を置いた場所のようです、その時に堂宇が燃えたそうで、うちのご先祖(吉川元春)がご迷惑を掛けたようです。
m(_ _)m ペコリ。

 帝釈天王のお堂です、仏教神社の中間のようなつくりの印象があります。

 帝釈天王の堂内です、天井には彩色絵があり、建物は簡素な作りながら、崇敬感がハンパ無いです。

 鐘撞き堂(右)と左手は大梵天王への階段になります(まだ登る)、現地に行くと猿の狛犬が三箇所にありました、何れも大梵天王と関連づけているので、大梵天王猿田彦と関係があると確信しました。

 備中福山の猿田彦神社の猿も前々からあったものと認識できますので、猿田彦関連に猿の狛犬が組み合わされているようです。

 小野照崎神社の庚申塚にも猿の狛犬があった理由は、ここの大梵天王の事を知っていて作ったからだと推測出来ます。(小野篁が知っていて、息子に教えていた事が推測出来ますね。ジ~ンときます。)

 私の解釈では、美星町梵天王とここの大梵天王は別人だと思います、大梵天王備中福山で生まれたと考えられ、母方は猿田彦の娘じゃないかと思います。

 じゃあ父はというと、美星町の梵天王の父の竜王じゃないかと思います、そして大梵天王の息子か弟が梵天大権現で、この三人が集合して仏教の「梵天」となったと考えられます。

↑ 梵天像(頭の上の顔は何?)

 「梵天」の名のつく人物が環境を考慮して考えると三人は何となく見えてきますが、もう一人いるんですかね?

 いたとしても、時代が少しはなれていて、影の薄い人物のようです。(オマケのような顔の主。)
子持ちの猿てす。
コチラも子持ちの猿ですね。

大梵天王の堂内です。
帝釈天王の堂内と同じで彩色絵が天井にあります、位置関係から大梵天と帝釈天の上下関係が分かります、明らかに大梵天の方が上位の存在のようです。
 大梵天王のお堂横に磐座があり、建物の下に潜ると………↓
 岩肌に文字が彫られていました。
 文化年間のもので、そんなに古くは無いですね。(感覚がオカシイので江戸時代が新しく感じています。)
 先程の磐座の上にある磐座てす。
 本殿も磐座の上にありますね。
 上の磐座にも「南無妙法蓮華経」が彫られていました。
 山頂部の磐座群です。
 毘沙門天の堂内の様子です、磐座に彫られた磨崖仏(毘沙門天)を拝むように建てられています、毘沙門天は二代目シャガラ龍王(竜王)と初代七面天女との間に生まれた子だと考えています。(二代目シャガラ龍王が初代の毘沙門天の可能性もあります。)
 毘沙門天堂の横にあった瓦に「クルス紋」がありました、何処かで見たような気がしますが、中川氏ですかね? クルス紋の人達はキリスト教系の人達なのか、何故毘沙門天に?ってなりますね。

 毘沙門天の磨崖仏です。(お堂から見えていたヤツてすね。)

 おっと忘れていた、大梵天王の入口横にあった狛犬(猿)です。
 狛犬(猿)の右側。

 本殿の奥にあるデッカイ常夜灯ですが、基礎の石組みに丸石がありました、三宝大荒神にもあった丸石はヤッパリ意味がありそうです。
 ↑ 石組みの中の丸石
 妙見大菩薩もありました。たぶん親戚なんでしょうね。
 摂社に「明星天子」なるものがありました、明星とは「金星」になりますが、メソポタミアの時に金星をシンボルとする神がいますので、その末裔がいた事を示しているように思います。
 今度は階段を降りて、鳥居を見に行きました。
 懸額の文字は「大梵帝釈天」となっていますね。
 狛犬(猿)の三箇所目です。

 以上が神社を見て回った結果になりますが、この山の裏手にも遺物がありそうだったので回ってみました。
 牛神の石碑です、地図を見ていたら「牛神」の地名がチョット北にあり、全国には全部で三箇所に地名、「牛神山」が一つでした。

 確か別の神社でも牛神が祀ってありましたが、その説明では牛市などで牛を大切にするウンヌンカンヌンとあったと思いますが、たぶん違いますね。

 メソポタミア雄牛神の末裔が「牛神」という部族名になっている様な印象です。

 龍王山の範囲と位置が被るので、龍王たちと一緒に帰ってきたんだと推測されます。
 先程の牛神の石碑近くにあった石碑です、パット見「太加う志ん道」に読めますが、たぶん「右 加う志ん(庚申)道」が正しいんでしょうね。(私も読めるようになってきていますね、(笑))
 こうしん道を進むと山へと続く道があり、石仏が並んで建っています。
毘沙門天ですかね。
梵天?
 古くはないですが地蔵菩薩でしょう。

 このように庚申山は霊山として古代から信仰の地としてあった事がわかります。(全国の庚申山の大元がココだと推測されます。)

 庚申山と名付けられている山は「修験道の山=磐座の多い山」だと考えられ、初期仏教における修行の地としてあったと思います。

 この庚申山吉備の内陸へと入ってくる船を全て監視でき、船溜まりから一斉に船を漕ぎ出せる要衝の地としてあったと思います。(最初の地図を参照のこと。)

 大梵天王綿津見(海神)の一人であり、龍王の末であり、仏教の行者でもあり、三宝を守護する荒神でもあったと考えられます。

 そんな大梵天王の宮があった庚申山が何故注目されていないのか?

 仏教施設だとみんなが思い込んでいるからに他なりませんよね~。

 龍海