↑ 研究成果を公表しています。


 龍王達については今調査中なので、満額回答(笑)とはいきませんから、他の研究者への援護射撃の意味を込めて、今日は龍王達が瀬戸内海へとやってきて岡山県・香川県・徳島県・広島県に集中して土着した事について考察をしてみたいと思います。(特に西日本の歴史が好きな人は注目して下さい。)

 


↑ 生成AI 「龍王」

 龍王達はインドに於いてナーガラージャと呼ばれ、「人面蛇体」の存在として表現されている事から、次のような像が作られています。

 

 

 スピリチュアルに扱えば妖怪ともいえそうな姿ですが、これは「言葉を元にした彫像」だと思われ、祖先に同じモチーフの存在、「伏義と女媧」がいる事にあると言えます、伏義女媧も同じ「人面蛇体」と伝えられる人物で、中国における祖と呼べる伝説の人物でもあります。

↑ 伏義と女媧

 伏義女媧は二卵性の双子であったようで、中国でも兄と妹、夫婦であったなどと伝えられていますが、インドリグ・ヴェーダには二人の微妙な様子が書かれていますので、中国の伝承についても白黒つけるのは難しいのかもしれません。(伏羲と女媧と思われる人物がインドに伝えられている事も重要な話です。伝えたのは子孫の日本人だからだと考えるからです。)

 

 この伏義ですが、子供に神農があり、洪水伝説もある人物になります。

 

 神農とは「神名」ですが、人間としては「蚩尤(しゆう)」という名であったと考えられ、その子孫には「猫族(みゃおぞく)」があります、猫族の伝承には別に「ヤペテ」の子孫、「蚩尤」の子孫とあることから、先の考察が出来る訳ですが、問題は「ヤペテ」の方になります。

 

 また神農を表す表現に「牛頭人身」と表現されていて、伏義が「人面蛇体」と同様に人間ながら異形の者とするような表現があります、これは中国を調べても何も出て来ないと思います。

 

 なぜなら四千年以上前の時代(三皇五帝の時代)で突然降ってわいたように「」となったとするような歴史が刻まれ、ノアの方舟と同じ様に洪水にあった者など複数いるわけがありません、つまりノア伏義とは同一人物だからです。(元々、ノアには記録された先々で複数の名前が確認される人物です。ギルガメッシュ叙事詩には息子のギルガメッシュ日本で会っている話もあるので、その後に中国へ渡ったと考えられます。)


 そしてヤペテとはノアの息子ですから、猫族ヤペテの子孫と伝えるのも、別に間違いではなく、名前の由来がユダヤ教にあるのか、中国語にあるのかの違いだけになります。(ノア伏義ヤペテ神農

 

 つまり人面蛇体牛頭人身の表現も、オリジナルがその前にいた「メソポタミア」にあるからに他なりません。

 

 この人面蛇体については、私の住む岡山県倉敷市では歴史が好きな人ならば見たこともあるものなんです。

 これは倉敷市にある楯築遺跡で見つかった「旋帯文石」と呼ばれる謎の石ですが、石の全面に流水の様な渦が刻まれていて、角に人面が彫られているものになります。(これは私の意見ですね、でも他に良い解釈は聞かないです。)

 私も最初みた時には、「何じゃコレ?」と全く分かりませんでしたが、龍王が日本へとやってきている可能性が分かった時にひらめいて、これは龍王を表現したシンボルだと理解する事が出来ました。


 ただコレも龍王達が居なくなった後に彫られたんじゃないかなと思うのは、ヤッパリ「人面蛇体」という言葉を元に彫られていると思います。

 

 龍王楯築遺跡の関係を示すと、

 上図のような配置になり、岡山県へと土着した龍王達に囲まれているような位置関係になります、「人面蛇体」という表現は恐らくメソポタミア蛇神に始まっていて、蛇神は「魚神」が分かれたと推測しています。(分家して新しい部族が生まれ、をシンボルにした。)

 

 魚神とは「怪物オアンネス」と伝わっていますが、メソポタミアに残る塑像を見ると「魚の着ぐるみを着た人物」として表現されており、人間である事が分かります、つまり人面蛇体蛇神ノア以降の天神王家が「太陽と月」に分かれ、出世して月の大王がから「」となった事が日本では「鯉の滝登り」(鯉が滝を登って龍となる故事)として伝承されているようです。

↑ 怪物オアンネス(メソポタミア


 太陽と月に分かれた様子とその勢力範囲は現代の国旗にも反映されていて、国旗に現れる「太陽と月」を地図にプロットすると見えてきます。

 アメリカ大陸には15000年前や弥生から古墳時代に南米へと進出している証拠(考古学的な出土品)が出てきていますので、また別の機会にご紹介したいと思います。

 

 太陽(赤)と(黄色)に分かれた王家は「祭祀王」として君臨し、宗教と知識を世界へと伝えていた事が主にメソポタミアの伝説や中国エジプトの伝説に残されています。(王家とはいえ、つつましい聖職者の様な生活をしていたように思えます。実際に聖職者ですけど。)

 

 しかし、これらの伝説を記録したのは土着の民族であり、日本人が使用した固有の文字は「ウルク古拙文字」が初見だと思います、しかし「アヒル文字」などの神代文字エジプトでも見つかっているようなので、情報をもう少し集めると、日本の神代文字が他からも見つかる可能性は高いと思います。

 

 さて本題へと戻りますが、「」と「」という漢字の成り立ちを調べると

 上記の通りわかっていて、中国の文字とされる「金文」と「甲骨文」に求める事が出来るようです、特に「」の金文にはウルク古拙文字の「」が右側に書かれていて、組み合わせの意味としては「冠+月+蛇」が「」となるのだそうです、冠とは「王の象徴」、月とは「月王家」、蛇とは「蛇神の末裔」であると考えると、メソポタミアでオアンネスから分かれた蛇族が王となり、王は「」となったと理解できます。

 

 金文の「」とは月王家の大王を示す言葉であったものが、概念上の「」と習合して「龍=竜」と使われるようになったのだと理解できます。

 

 そして龍王の称号をつかえるのは「月王家の血筋だけ」である事も理解出来ることとなります。

 

 また大事なポイントとしては中国では「龍と竜の字は使われず、ほとんど知られていない」ことにあると思います、つまり「」や「」の字を生み出したのは日本人である事の証明出来る証拠の一つになります。

 

 倉敷市にある児島という地域はかつては島でありました、児島という名前も「龍王」に由来すると聞けば驚く人もあると思います。(私の説です。)

 

 児島というのはかつて小豆島までを含む広域を意味していたようです、日本へと渡来した龍王達の大王は「シャガラ龍王」(本当は漢字ですが、面倒なのでカタカナ表記です。)と呼ばれる王で、八大龍王の一人でもあります。

 

 児島にある龍王山にはもう一つ名前があり「児島竜王山」と簡単な字の名前も残っています、国土地理院の地図で「龍王山」で検索すると龍王達が土着した様子が顕著にあらわれます、そしてその山の名前には「」と「」が明らかに使い分けられていて、親龍と子竜とに分けて支配領域が分けられている事がしれます。

↑ 龍王の検索結果(旗)に綿津見三神の概念描いた図


 主に瀬戸内海周辺へと土着した龍王たちですが、その末裔はやがて、綿津見(海神、わたつみ)として活躍し土着の民達から崇められた称号が「綿津見三神」だと思います。

 

 児島龍王山へと登る時に「善女龍王」が祀られていました。

 

 この石碑にある善女龍王シャガラ龍王の娘になりますので、月王家の王女と呼べる女性になります、その石碑があるならば竜王山の主は善女竜王であり、龍王山の方はシャガラ龍王と考えられ、児島の地名は「瀬戸内海の島がシャガラ龍王の児が支配する事になった」経緯から付けられた名ではないかと推測する事が出来ます。

 

 では同じような事例が他にはないのか?

 

 岡山市東区瀬戸町にも龍王山がありますが、その山の峰に「七面様」という祠があったようです、七面様とは七面天女を祀ったもので、タクシャカ龍王の娘になります。

 

 この七面天女には「弁財天吉祥天厳島女」などの別名があり、美人で芸達者な女性であり、初期仏教を実践する女修行者でもあったようです。

 

 タクシャカ龍王八大龍王の一人であり、そんな特別優れた娘が嫁ぐのは「シャガラ龍王」だと考えられますが、その定住地はなんと笠岡市のようです、笠岡市には「七面神社」があり、その神社の立つ山は「七面山」と今でも呼ばれていますので、仏教に出てくる七面天女の初代がここに住していた事を示していると思います。

 

 七面天女は鎌倉時代にもいた事が伝承されていますので、初期仏教の実践者(たぶん修験道)の中で条件を兼ね備えた女性が代々「七面天女」を名乗っていたのではないかと推測され、宗像三女神の一人が「イチキシマヒメ」と名乗るのも、厳島女(いつくしまめ)の称号を受け継いでいると考えられます。

 

 七面天女の足跡は真備町連島町にもあり、笠岡七面神社の南には「神島(こうのしま)」があります、神島にも「竜王山」があり龍王の子の誰かが支配したであろう事は分かっていました、しかし七面天女が嫁いだと考えられることに加えて、隣の山の名前には「塚の丸山」という名が付けられていて、この山には最初のシャガラ龍王が葬られた山だと推測出来た事により、月王家大王が葬られたが為に「神(こう)の島」と呼ばれることになったと気づけたのです。

 

 他にも帝釋峯仗龍王帝釋幢龍王帝釋仗龍王の三人は「帝釈峡」の所にある「龍王山竜王山」と関係していると考えら、その系譜から「帝釈天」が誕生していると推測出来ます。

 

 また大歩龍王は「大歩危(おおぼけ)」の地名として、徳島県に残っていて観光地として今でも有名です、瑜伽山金比羅さんはどちらもサンスクリット語に由来する名前で「ヨガクンビーラ」になり、今は健康体操として「ヨガ」の名前で逆輸入され、クンビーラはワニの事で、和邇氏のルーツであると考えられることや、玉野玉比咩神社の地で生まれた「豊玉姫」がワニの姿をさらしたなどの伝承も、血筋がクンビーラにあることを意味していると考えられます。

 

 豊玉姫は「龍王」の称号を継承していたことが徳島県豊玉姫の神社が龍王宮として祀られていたいた事が残されていますので、紀元後においても龍王の称号は生きていた事を示しています。

 

 このように岡山県とは龍王の土着地にしてシャガラ龍王のいた本拠地だった事が分かってきています、今回は簡易証明なので、まだまだ情報は出てくるのだと思います。


 龍海