↑ 歴史研究の成果を公表しています。


 このタイミングで何故、蘇我物部の話題になるのか? 実はしばらく前から気付いていた事ではありましたが、書くのが今日になっただけなんで、深い意味はありませんでした〜。


↑ 生成AI「蘇我氏と物部氏の戦い」

 蘇我氏は「大臣(おとど)」と呼ばれる内政における最高権力者だった一族ですが、実は私もまだ詳しく理解していません。


 地神系なのは間違いない所ですが、大臣(おとど)の前の「大使主(おおおみ)」という称号からいつ変わったのか? まだ謎なんてすよね〜。(調べてないので、私が知らないだけかも知れませんが。)


 かたや物部氏とは神武東征の後に神武天皇ニギハヤヒとが痛み分けとしたケンカの結果、天皇(天つ日嗣)はそのまま神武天皇に、その代わりにニギハヤヒの息子、ウマシマチが大物主に取って代わり「物部氏」として全国の物部に号令できる立場になりました。


 全国の物部といわれても、これまた実態の分からない言葉になりますが、私の解釈では「モノとは、物=武器、モノ=霊・祭祀」とちょっと曖昧ですが、「武力と祭祀の権限を持つ人」という王権から与えられた称号だと思っていまして、結局は「部族長」の事だと思います。


 日本は部族ごとに国があり、部族ごとに祀る神様が違い、それでも連合国家として天つ日嗣を頂点とする国家運営を7世紀までしてきたのです。(これが豪族による話し合いで決めていたって表現になるんです。)


 さて、蘇我氏物部氏の戦いは仏教を導入を巡っての争いだったとする解釈が通説です、しかし私の研究から「神道」とは初期仏教を含むものなので、初期仏教の国、日本へ亜流の大乗仏教を持ち込もうと考えた人達の代表が蘇我氏だったと思います。


 蘇我氏は地神でもクナト王系の地神で、日本の宗教を外国で変化して生まれたものに置き換えて、天皇の権威を落とそうとしていたのかもしれません。


 内容としては、先に蘇我氏物部氏を殺して、その後に蘇我氏中大兄皇子に殺されるという大事件となるのですが、この背景を理解するのが超難しい!(蘇我氏を殺したのに中大兄皇子は処罰されていないので、完全な権力争いだった事は間違いないのでしょう、中大兄皇子を処罰するなら戦争するぞ!とバックにある勢力があったと分かるのです。)


 中大兄皇子はどの立場で蘇我氏を殺したのか? その動機もチョットよく分からないですね~。(この件は謎だらけ)


 中大兄皇子は後に天智天皇になるので、天皇争いの為にしてはリスクの大きい遣り方になると思います、だから天皇になる為とは思われず、チョット不思議な感じなのです。


 とまぁ、分からない事は置いといて、今回はこの時の蘇我氏物部氏の対立の原因を、出雲富家では「宗教による」と濁して伝えていたのが実は気になっていた事が起点としてありました。


 シャカ族龍王たちの存在、そして釈迦は「教義を定めない」事を伝えていた事を知り、確信した結論があります。


 それは「仏教」の導入という単純な理由ではなく、「初期仏教の原理主義派」と為政者として国民の意識改革に「大乗仏教を利用しようとする派」の二派に分かれての議論ではなかったかとするのが私の解釈になります。(つまり日本の神道は小乗仏教という分類にあたる?)


 その議論がヒートアップし、別の恨みも重なって、軍事のトップ物部氏と、政治のトップ蘇我氏との戦争に発展したとする解釈です。(この戦いにはたぶん小野氏は参戦していません、またこの戦いの詳細も伝えていない事は何かしらの問題を含んでいると考えられます。)


 小野妹子仏教を導入後に六角堂の専務となっていて、仏教に積極的に参画しています。


 小野妹子の八男も願泉寺も住職となり現代まで続いており、小野小町(吉子)の末裔の我が家の先祖も僧籍にあったようです。(分かるのは小野一族は仏教を受け入れているという事実のみです。)


 勿論、小野氏の中にも原理主義派は多くいたと思います、しかし小野氏の立場からいえば、地方の豪族を纏める役割があった為、表立ってドチラかを支援する事は出来なかったとも考えます。


 この様に、私の研究成果はこれまでの解釈をことごとく変えていく可能性が高いと思っています。


 釈迦の教えを忠実に守ったせいで、宗教としてはインド中国へと伝わった仏教の方に経典が生まれ、教義が生まれ、仏像が生まれ(日本の宗教は偶像崇拝をしない事が共通点としてあったと思います、だからキリスト教になってからキリスト像やマリア像などが生まれ、信徒への訴求力が強まり、ユダヤ教からキリスト教への乗り換えが進んだと考えます。)


 日本でも同じで、初期仏教のままの神道、かたや民衆に人気があり、道徳観念も伝え導く大乗仏教に対して衝突したのだと思うのです。(蘇我氏はユダヤ教系と思われるので、初期仏教への恨みも少しはあったかも知れません。)


 日本の歴史はこの様に成り立ちが分からない為、ことごとく解釈が歪んでいると思います。


 奈良時代には既に分からなくなっていたのか、実際にはまだ覚えていたが、朝廷が天皇家に都合の良いように編集したか(私は天皇家都合に一票です、何故なら平安時代の小野篁は全てではないにしても、小野篁の動きから見える雰囲気からは、まだかなりの事を知っていたと思われるからです。)、ドチラにしても証拠となる資料は失われていて、そういう意味では考古学に頼る気持ちは分かります。


 しかし現実には文献からでも、かなりの事が分かる事は私の作業からも証明出来ると思います、分からない事はウソだとするのは簡単なので、分かる人がもっと歴史研究の道へ入ってくれる事を期待したいですね〜。(笑)


 龍海