NHKに触発されたので、古代史における重要な命題、邪馬台国の女王、卑弥呼とは「世襲足媛」である事への証明をシンプルかつ明確に行いたいと思います。

 ↑ 博多人形 卑弥呼 川崎幸子作
 

 卑弥呼に関する記述は『魏志倭人伝』に多くがありますが、その内容の詳細については個々人で調べて貰うこととして、証明に必要な事のみを列挙していきたいと思います。

 

 卑弥呼とは『三国史記』から就任年が173年、『魏志倭人伝』から崩御が247年以降と推測出来ていますので在位期間が74年もある長生きをした女王である事が分かっています。

 

 しかし日本の正史である『日本書紀』における天皇の在位年数は『ホツマツタヱ』の在位年数を元にしながらも、日本書紀の編纂者たちはホツマツタヱの暦の謎が解けず、そのままの年数を書いていますので、実際の在位年数とは違う年数が記述されています。(ギリギリ、人間の年齢と言い張れそうな年数であったことも禍いしていると思います。)

 

 これを証明するには手順として、まず最初に『和邇部氏系図(大久保家家譜草稿)』にある情報、から天皇の代数と在位年数と和邇氏の代数とを比較検討して、おおよその年数の見当をつけます。

 この系図の中で注目すべきは、誰がどの天皇の元で家臣であったかが書かれている部分です、例えば彦国葺命は崇神朝・垂仁朝において家臣をしていたと思われる内容が書かれていますので、和邇氏の代数が概ねの時間軸となり天皇の推移との関連から正史における在位年数の補正が掛けられると考えました。

 

 正史では天皇の在位年数が83年102年と史実とは思えない年数が記録されています、この理由については後述するとして、「累計年数÷代数年数」を見てみると、最大で約四倍になっている事が分かります。(1代を20年として時間軸として使用します。)

 ↑ 累計年数を代数年数で割ると倍差が分かります。

 

 これは正史における年数の記述が現代の「」とは違う概念で記録されていると考えられ、代数から分かる時間軸とで補正をかけることを目的としています、つまり「おおむね正しい在位年数」を突き止めようとしています。

 

 和邇氏の女性は天皇妃となっている女性ですので、代数としては1~2代ほど実代数よりは若いと考えます、持統天皇までで和邇氏の代数は19代で380年、かたや正史に記録する在位年数の累計は1165年とその差は785年と大きく食い違っています。

 

 この倍差を生んでいる原因として、正史の情報源として主に「ホツマツタヱ」を採用してあると考え、かつそのホツマツタヱ四倍暦で記述されている事に原因があると考えました。

 

 そして仁徳天皇の時に倍差がピークを迎え、それ以後は差が解消されていっています、それは正史の在位年数が正しくなり、倍差が解消されていっている事を示していると考え、4倍歴となっているのが、仁徳天皇までだと判断出来ると思います。

 

 正史の在位年数を和邇氏の代数年数とで比較検討した結果、神武天皇から仁徳天皇までの累計年数でおおむね四倍暦になっていることを確認しましたので、この結果を西暦での即位年が分かる継体天皇から逆算し、仁徳天皇以前の在位年数を四で割り切り上げて、推定の在位年数に落とし込んだものが下図になります。

↑ 仁徳天皇までが4倍歴と考えられる為、それ以降の暦は概ね正しいと仮定して、仁徳天皇以前の在位年数を4で割り補正を掛けて、在位期間を逆算しています。

 

 ホツマツタヱの暦の解釈については、最後に記述します。

 

 卑弥呼とは二世紀末から三世紀に日本を統治していた女王と分かっていますので、天皇家の祖の誰かだとは思われています、なぜなら小国の女王の事など魏志倭人伝では記録していないハズだからです、日本をなかば支配していた女王を指す事は確実だと思いますので、ヤマト王権にいた女王だと考えます。

 

 逆算された天皇の名前で該当する人は孝昭天皇孝霊天皇孝元天皇となることが分かります、しかしこれは男王の名前であります、神武天皇の時に日本は天神地祇に大王家が分かれ、天皇家とは男系の天神王家、小野家は女系の地神王家となっています。

 

 しかし天神王家へは地神から嫁ぐ取り決めにしていたルールを逆手にとり、一時期は男王の指図を無視し女王の采配にて政治を執り行っていた時が卑弥呼の時代だと考えられます、その事で天神王家としての記録であるホツマツタヱでは、男王の記録として残さなかった事が、「欠史八代」や「空白の四世紀」という言葉を生んだと考えられます。

 

 欠史八代とは綏靖天皇から開化天皇になりますが、綏靖天皇から懿徳天皇の3代は成人すると殺され、子供の時から即位した形式をとり、実質的に何も実績が生まれなかった為に記録が無かったと考えられ、孝昭天皇から開化天皇までは卑弥呼世襲足媛)と台与地神出身の二人が女王として政治を行ったので、ホツマツタヱにも記録されなかったからだと思います。(天神王家の記録として残さなかった。)

 

 空白の4世紀についても、神功皇后などは地神から出た女王で政治に積極的に口を出していますので、女王による政策が多く施行された為だと考えられます。

 

 神武天皇から孝昭天皇の時の事は『東日流(つがる)外三郡誌』に詳しくあります、「神武帝の乙亥年、荒吐五王が一挙して故地邪馬台国を攻め、日向族を誅殺し、天皇を空位ならしめたるも・・・荒吐一(あらはばき)族の大和への遠征は、爾来、歴代の帝在位に必ずや攻防を繰りかえし、懿徳帝の壬戌年、荒吐五王軍は大挙して邪馬台国を攻むる。依て亦、天皇の空位と相成り、茲に日向族と和交と相成れり。然るに、荒吐族の五王は日向族との和を保つ得ずして、賛否甚々しく対立し、茲に五王同志にては、観松彦(みまつひこ)のみを残して奥州に引帰れり。」とあります。

 

 2~4代の天皇の在位年数(変換後)をみると、8年10年9年と短くこの話を補足しています、また「観松彦」とは孝昭天皇のことで、在位年数は21年、113歳(実年齢は57歳と推定)と寿命をまっとうしていると思えます。

 

 これが魏志倭人伝に残る「倭国大乱」の事だと思います、この時に講和条件として天神王家の統治を地神出身の女王が行うことで決着したと思われ、地神の系譜から「日女命」の一人が観松彦の妻となって実質の女王となったのが、「卑弥呼」であると考えます。

 

 孝昭天皇の妻は日本書紀にも「世襲足媛(よそたらしひめ)」とある通り、大山祇の系譜に連なる娘でありました、世襲足媛の別名に「日置日女(ひおきひめ)」だということが『先代旧事本紀』にかかれており、世襲足媛日女命(ひめのみこと)だった事が分かります。

 

 では世襲足媛は何歳で嫁いだのでしょう?、これはホツマツタヱに書かれています、「二十九年 キシヱ一月三日 后立つ ヨソタリ姫の 歳十五ぞ」と書かれています、記録者も15歳であることにビックリしています、なぜなら二倍暦で書かれた孝昭天皇の暦では15歳の実年齢は8歳(数え年で)だからです、明らかに政略的な結婚であったことがこの事からも分かります。

 

 では即位年が分かる史料は無いのかと思い探すと、それと思われる記録が朝鮮半島に残されていました、『金思燁全集』に載る記事『完訳三国史記(上)』から引用すると「二十年(一七三)五月、倭国の女王、卑弥乎(呼)が使臣を遣わして修交した。」とあります、これが卑弥呼の即位時の記録だと思います。

 

 西暦では173年の事であると書かれていて、先の表では孝昭天皇の即位年が178年と僅か5年の誤差であることから、孝昭天皇の即位年も誤差が少ないことが分かります。(シミュレートした変換表が思いのほか正確である事を示しています。)

 

 では没年はいつなのか、247年に狗奴(くな)国との戦争を報告を最後に男王が立つ記録が残された事から、248年に亡くなったと仮定すると、没年は248年、生年は166年となり83歳で亡くなったことが分かります。

 

 平安時代の貴族の女性の平均寿命が四十代であった事を考えると、それよりも更に六百年も前の女性が83歳まで生きた事は脅威的な事であったと思います、神様に仕える巫女だからこそ長生きしたと当時の人は考えたと思います。

 

 これを裏付ける表現が魏志倭人伝には残されています、卑弥呼の事を表現して「年すでに長大にして」とある通り、かなり高齢であった事が伝わっています。(二倍暦で伝えたなら166歳だと教えたハズです。聞いた側は正確な年齢ではなく誇張されていると考え、年すでに長大と濁したと考えます。)

 

 では卑弥呼が亡くなったあとに立った女王の台与(とよ)とは誰なのか、これも明らかにする必要があるのですが、これは先行研究からあっさりと分かる事になったのです、それは国宝『勘注系図(かんちゆうけいず)』に「日本得魂(やまとえたま)の妹」とあり別名として「亦名天豊(とよ)姫命」、「大倭姫命」とある女性になります。

 

 しかし、この名前では天皇妃の中に名前が見当たりません、卑弥呼の後を受けた女王ならば天皇妃である事は必須の条件でしょう、父親の名前が建諸隅(たけもろずみ)だという情報を元に手がかりを探します。

 

 建諸隅命には別名として「由碁理(ゆごり)」という名がありますが、『古事記』に丹波の大縣主由(おおあがたぬし)碁理の名前があり、その娘で竹野(たかの)が開花天皇に嫁いでいました。(当時の姫の名称は在所により呼ばれているようです、竹野にあったから竹野姫大倭にいたなら大倭姫、だから竹野姫大倭姫天豊姫命)※大倭は奈良県にある地名です。

 

 開化天皇の即位年は逆算表では258年となっており、孝昭天皇の即位年の80年後にあたります、つまり卑弥呼の死んだ時の天皇が開化天皇である可能性が高く、魏志倭人伝にある通り女王が死んですぐに、開化天皇が男王として君臨したが地神系がまたぞろ造反し戦争となって千人が死んだのだと推測出来ます。

 

 そこで擁立されたのが卑弥呼の宗族から選ばれた「台与(とよ)」でした、嫁いだ年齢は13歳と魏志倭人伝にはあり、これも聞いた年齢であると考えられることから、二倍暦の年齢とすると実年齢は7歳だったと考えられます。

 

 女王の卑弥呼と台与の関係性を系図に起こすと下図の通りとなります、世代としては世襲足媛の四代後が台与となりますが、台与の即位が7歳であることや世襲足媛83歳まで生きた事を考えると、代数の誤差を入れても丁度良い年齢差である事が分かります。

 これで卑弥呼台与の関係は証明出来たと考えます。

 

 次は卑弥呼世襲足媛と考える傍証を上げていきたいと思います。

 

 魏志倭人伝には次の有名な文章があります、

 「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年

  乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆 

  年已長大 無夫壻 有男弟佐治國

 その国は本(元)は男子を以て王と為し、「住みて7,80年」とあるのは神武天皇が大和の橿原(かしはら)へ宮を構えてから卑弥呼の統治下までを指す言葉のようです、下図のホツマツタヱ年表で確認してもらえればと思います。

 神武天皇が即位したのが約120年頃なので、これを記録した者が来たのは200年頃となり、その時は卑弥呼は38歳頃と推定する事が出来ます。

 

 今回は最後の部分、「年已長大 無夫壻 有男弟佐治國」に注目してみたいと思います、卑弥呼は鬼道を能(よ)くしとあって「神に仕える巫女」なので結婚をしていないとよく解釈されていますが、これはかなり先入観が入っているように思えます。

 

 これは、素直に「年は已(すで)に長大で、夫や壻(むこ)は無く、男(むすこ)や弟(卑弥呼の弟か息子の弟と考える)が佐(たす)けて国を治める」と読めますが、「男弟」などは多くが、ただ弟と訳される事が多く、弟にわざわざ男を付ける意味は無く、息子という意味で男と書いたと私は考えます。

 

 世襲足媛には二人の息子がいて、地神を継いだ長男の「天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひと)」と天神王家を孝安天皇として継ぐ、弟の「日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひと)」がいます、なので私には「息子とその弟」と読め、夫の孝昭天皇は既に亡くなっていた時の事を描写しているだけの様に思えるからです。

 

 大神(おおみわ)神社に残る資料には、孝昭天皇の治世に世襲足媛大己貴(おおなむち)が取り憑き三輪山に瑞籬(みずがき)を立て祀った事により世襲足媛は「宮能賣(みやのめ)」となった事を伝えています。

 

 まず宮能賣とは、対象となる女性が少なくその意味を詳しく記したものがないのですが、私の調査した結果では「大王の後宮において誰も頭が上がらない女性」を意味するという結論になりました。

 

 これは即、女王という意味ではなく、「神を降ろし、神の言葉を伝える女性」のことではないかと思われ、女王でなくても発言力の強さから来る称号の様でした、ですのでまず前提として女王と同義では無い事を伝えておきたいと思います。

 

 しかし、大神神社に伝わるこの伝承では世襲足媛孝昭天皇と結婚をする前の事を書いているように思えますので、誰を女王とするかを神に問うた結果、世襲足媛が選ばれた事を伝えるものではないかと考えます、この後に孝昭天皇妃となって女王「卑弥呼」となったのだと思います。

 

 もう一つ引っかかるのは世襲足媛が「神宮部造」の祖となったという記事です。

 

 この神宮部造も記述が無い言葉ですが、名前から分かる通り神宮(神社)を管理する部(べ)の造(みやつこ,=統率者)となったという意味だろうと思います。

 

 今でいうなら神社庁の長官というべき立場だと思いますが、ようするに全国にある神宮神社)を管理する部(この場合は神官巫女)を統率する立場という意味だと思います。

 

 この事柄は一つ思い当たる事があります、確か柳田国男が書いていたと記憶するのですが、日本の神道には不思議な事に全国で統一された様式で祀られている事が、宗教上の研究の経験からみて異常なんだそうです。

 

 どの宗教でも地方に入った時点から独自の様式に変じていくのが通常で日本のように一律に同じ事は無いそうなんです。

 

 また前方後円墳卑弥呼の終焉時から作られ始める事にあります、この時に宗教的(初期仏教ユダヤ教道教修験道が融合した、神道)に合意した70国では祭祀の仕方が統一された事を物語っていると思います。

 

 また卑弥呼の記述で引っかかるのが魏志倭人伝の次の内容です、「以婢千人自侍 唯有男子一人」、婢(はしため,=世話をする下女)を千人も侍らせていたと、女王の権力の強大さ示す内容とし、取り次ぎ役の男子は一人だけであったと、男性を寄せ付けないイメージとしてこの一文を取り上げる事が多い内容です。

 

 しかし世襲足媛神宮部造ならば、神様の祭祀の仕方を伝える必要も出てきます、当然古代は各氏族に氏神を祀っていましたから、巫女たる娘は大変な数になろうかと思います、皆さんの想像通り、私はこの内容は女王の卑弥呼が神様の祭祀の仕方を各部族の巫女に教えていたのだと思います。

 

 それは季節や時間帯、祝詞(のりと)など多岐にわたる内容になる為、数年にわたり卑弥呼と同様に過ごしていた様子を描写したもので、この時において日本の神道は統一した様式を全国に伝えたのだと考えます。

 

 ついでといってはなんですが、朝鮮半島には日本を南北に描く地図が残っています、邪馬台国への行程はこのような地図を頼りに後述された可能性も考えられます、この地図は龍谷大学所蔵の「疆理(きようり)図」と呼ばれる地図で、1402年に李氏朝鮮国で作られた地図ですが、日本に来た使者が朝鮮半島から得た地図を頼りに日本の行程を記録した可能性があるならば、東西南北を誤って記録した可能性は大いにあると考えます。

 では邪馬台国はどこにあったのか、やはり私見を述べておかないといけないと思います。

 

 まず漢字の「邪馬臺(壹)国」の漢字はやはり「邪馬台国」で正しいと考えています、その上で「ヤマドの国」と使者には説明したのではないかと考えます、当時の日本語は部族によりナマリがひどく、伝えた人間が「ヤマド」と聞こえるように発音していたと考えますので、国名としてはヤマト国が正しいと考えます。

 

 また卑弥呼の対立していた狗奴(くな)国は、「クナ国」の事でサイノカミとして敬われているクナト王インドクナ国の国王だった人物)と幸姫の直系の猿田族が治める国だと思います。

 

 猿田彦にはアメノウズメが嫁いではいますが、その猿田族の末裔を『東日流外三郡誌』では「熊襲(くまそ)」と伝えている事から、狗奴国は今の熊本県にあったと考えます。

 

 そして魏志倭人伝にはこうあります、「南至邪馬壹國 女王之所都」と、女王の所とする都の名前がヤマト国だとあり、それが女王の国ならばそれは神武天皇以来、政庁が置かれた国である「大和(やまと)」だといわざるを得ないと思います。

 

 私達は現在、九州という名をもって呼びますが、古代には九州を「ヤマト」、本州を「オオヤマト」と呼んでいた名残が、戦前の沖縄にその表現が残っていた事を白柳秀湖氏は『新版 民族日本歴史 王朝編』の中で書かれていました、そういう意味では九州がヤマトとするのも間違いでは無い事になります。

 

 部族連合国家から徐々に宗主国を持つ合州国へと国のあり方を変えていたタイミングでの女王です、天神王家は皇祖の「黄帝」の唱えた道教を日本国の統一宗教としようとしていた為、天神王家への反発は大きかったと思います。(日本の大王はメソポタミアにあった頃から祭祀王であったと考えられ、それぞれの部族はそれぞれの国の歴史の中で祭祀王だった事から、道教に統一する事には最大の抵抗をしめしたのだと理解できると思います。)

 

 特に先に帰って来て住していたクナト王の系統はモーセ由来の宗教観(ユダヤ教)となっていた純地神前方後方墳)として、ことさら反発していたでしょう、それでも天つ日嗣に対して共存共栄を示し、友好的な地神が天つ神と結びつき大山祇の地神となっていった事は明白だろうと思います。(小野氏は天神と地神のハーフ、ハイブリッドの立場であったと考えて居ます。)

 

 その中で徐市の系譜という意識が強い「太陽天神」に対しては「純地神」からの反発が強く「倭国大乱」を招いていたと伝承記録からはうかがい知ることが出来ます。(天神にはユダヤ教の影響も入っていたと考えています。)

 

 これらの歴史的背景や当時の人々の意識、地名、および日本人の成り立ちから考えて、邪馬台国とは「大和国(今の奈良県)」、女王卑弥呼とは「世襲足媛(よそたらしひめ)」であるとしたいと思います。

 

 最後にホツマツタヱの年号の解読に成功したと思いますのでご紹介したいと思います。

 

 ホツマツタヱにはスス暦アスス暦とがあり、これらと干支を利用する事で年表を作る事が可能な状態にあります、私はホツマツタヱの年号を分析し、古代〜オシホミミ即位までは1日=16穂、オシホミミ即位以降を「四倍暦」と考え、1日=64穂で計算しました。オシホミミ以降を六十四穂を1日として四倍暦にてシミュレートした結果、卑弥呼世襲足媛)の就任年までの逆算において「誤差一年未満」という結果を得ました。

 

 4倍歴と聞くと異様に思えるかも知れませんが、メソポタミアには4節季の祭りで新年をむかえるものがありました、アマテル(男)に勝った素盞鳴尊が暦をメソポタミアの祭り(暦)に戻したと考えました。(適用は建前の大王、天忍穂耳尊から、実質はアマテル瀬織津姫))

 

 この暦を分析する上で重要なのが神武天皇懿徳天皇までは荒吐(あらはばき)一族によって攻められ、度々空位になっていた事が東日流外三郡誌に書かれている事です、この情報からも綏靖懿徳天皇は在位期間が短かったと判断する事が出来ました。

 

 特記すべきは神武76年は、後から設定されたもので、綏靖天皇の在位期間と重複があることです、私はこれを荒吐族との戦いで神武天皇が捕虜となり生死不明の状態が続いていた可能性があると思っています。

 この重複期間が11年で二重に在位年数としてカウントしている為、まずここで誤差が11年うまれています。

 

 また懿徳天皇までは四倍暦ですが、孝昭天皇の時には二倍暦になっていました、ここで世襲足媛の即位までが28年(本当は14年)となっていて、これが先の誤差11年を相殺していて、たまたま合計としては全体でほぼ四倍暦となっていたようでした、それらを補正すると徐市の渡来年(紀元前210年)からほぼストレートに暦が続いているという結果になることが分かります。

 

 この結果は徐市から卑弥呼までの年数が西暦に換算した場合において整合性がとれ、2つの仮説、①徐市が天皇家の祖である高皇産霊(たかみむすび)であること、②卑弥呼とは世襲足媛であることを同時に証明しているといえます。

 

 この事から、古代史の謎を解くには小野氏和邇氏を調べ、卑弥呼を特定する必要があり、卑弥呼の特定がホツマツタヱとの橋渡しを果たし、古代の全貌を明確にすることが分かったのです。

 

 私の研究からは卑弥呼でさえ前座となりそうな「重要な気づき」が大量に生まれています、日本の歴史研究者はチマチマと戦国時代にばかり焦点を当てていないで、日本人の本当の姿を研究して欲しいと思います。(日本国内の考古学だけでは、世界で活躍していた日本人の姿は分からないのは当然の事です。トルコの遺跡を発掘しているのは日本人の痕跡を知る上で期待をしています。)

 

 龍海