私の見ている世界観と他の方の世界観とは違う事は当たり前なのですが、普段から情報を共有している家族ともかなり違う事が多く、歴史が好きで私のブログを読んでいる方でも、私との古代史観は相当違うと思います。


 なので、今日は私の見ている世界を表現してみようと思います、書いている内容は全て根拠がありますので、楽しんで読んで貰えれば良いと思います。


 まず日本列島に旧石器時代から住んでいた人達よりも、外から入ってきた人達の方が多く、その人達は今の概念で言うと主にキルギス人中国人ドラヴィダ人だったのだと思います。


 それが二万年前の頃の話で、この中でキルギス人の中に突然変異的に知能が進んだ王が生まれたと考えるべきだと言えます。


 この王は日本にいた部族と交流し、其々の持つ良い文化(縄文土器や造船、操船、建築、土木技術など)を吸収し他の部族へと広める事で、日本列島の中で全ての部族の頂点(王の様な立場)になってしまいました。(部族連合国家)


 二万〜一万三千年までの間は、アメリカ大陸へと渡る日本人や東南アジアへと拡がる日本人もあり、日本国内では圧倒的な先進的部族となったキルギス人は日本列島を母国とする、いわゆる「日本人」として世界へ出ていきました。


 その痕跡が12,000年前のトルコの遺跡、ギョベクリ・テペ遺跡に残っています。


  トルコまでの移動は日本へと渡来してきた道を逆に辿ったと思われるので、キルギス人との交流は続けていた可能性があると思います。


 その王はトルコにおける原始宗教観から「牡牛神」(強い王様)として君臨し、9500年前にはメソポタミアへと移住し開拓を行いました。


 この牡牛神が凄いのは、母国の日本と連絡をとっていた事だと思います、その証拠として7500年前には熊本から「怪物オアンネス」が船でメソポタミアにやって来て、牡牛神の末裔と協力して世界初の文明であるメソポタミア文明を興した事にあると思います。


 初めてオアンネスを見たメソポタミアの人々には魚の姿の怪物に見えたようですが、この人物こそがメソポタミア文明を興したといって良い人物になります。


 怪物オアンネスは誰も渡る事の出来ない、それこそ「太陽」しか渡る事が出来ないとされた「大洋」を渡って来ましたので、「太陽神ウトゥ」の名前で呼ばれる事になります。


 更に4000年前には富士山の麓からユダヤ名ノア(ウトナピシュティム)メソポタミアへとやって来て、洪水に遭いながらも生き残り「洪水伝説」を残しました。


 その後、ノアと息子のヤペテは日本へと戻りましたが、もう一人の息子のハムメソポタミア大王ギルガメッシュとしてメソポタミアの大王となっています。


 その頃にはエジプトの南にも日本人は王国を開き、文明の興る前のエジプトとも結び付き、エジプト文明をも指導して発展させています。


 ギルガメッシュの息子にエジプト王の娘を母に持つイムホテプが宰相となり、世界最初の階段ピラミッドを築きました。


 同じ時にはノア(伏義)ヤペテ神農蚩尤中国へと移り、中国で最初の天皇として、宗教王として、中国文明を興しています。


 この時に日本人としては最大の領域の「祭祀王」として君臨していた事になります。


 メソポタミアの時には陰陽思想(アメナルミチ)により、牡牛神蛇神や、太陽神月神という具合に一族を分けていましたが、中国を太陽メソポタミア・エジプト・トルコ・イスラエルなどにいた日本人を月と分け、中間のインドは両方の日本人が「」に分かれて住んでいました。


 インドメソポタミア中国の中間にあり、双方の中継地として両方の文化の交流地として発展しインダス文明となります。


 縄文時代から持つ日本人の思想、「アメナルミチ」から中国キルギス太陽メソポタミアエジプトトルコなどはとグループを分け、それぞれに日本人の王家が存在しました。


 中国にいた太陽王家の徐市富士山が噴火したことを知り、日本の神様が怒っていると考え、五男の国常立尊に月王家のシャカ族ナーガ族に働きかけて富士山へと向かわせました。


 それが紀元前219年の事です、国常立尊は淡路島へと上陸し、シャカ族やナーガ族の龍王達は瀬戸内海から長野までの広範囲に土着し、富士山を探した様です。



 しかし容易には見つからず、連絡が来ない為、徐市は七男の国狭槌尊を連れて自ら日本へと向かったのが紀元前210年の話です。


 徐市が日本へと渡来してからは日本の中を「太陽」に分けて、東日本を太陽王家が、西日本を月王家が支配する「アメナルミチ」を定めました。


 そしてその両王家の上に立つ「天つ日嗣」として「富士山を祀る家大山積」が存在していたと考えられます。


 大山積が五代続いた後に、男系の天つ日嗣が生まれる前に亡くなった為、暫定王家として「イサナギイサナミ」を太陽王家の高皇産霊尊だった豊受大神が立てます、その後に月王家と話し合いの末、アマテル(男)を天つ日嗣として、次いで月王家のツキヨミ(男)に世継ぎの権利がある事を確認した様です。


 月の大王家はシャカ族でしたが、アマテル(男)はナーガ族の九頭龍の血を引くモチコを皇后に迎えた事で月王家との軋轢が生まれた様です。


 怒った月王家は中国にいた徐市の子孫(除福)をインドに留学させシャカ族に迎えるべく仏教の勉強をさせ、独自に天つ日嗣を立てようと素盞鳴尊除福)を日本へと招聘します。


 困った太陽王家とアマテルは月王家の血筋である瀬織津姫を皇后として迎え、急場をしのぎました。


 しかしアマテル九頭龍の人達も、このちゃぶ台返しに反発をして反乱軍「ヤマタノオロチ」となり素盞鳴尊と戦いましたが、敗れて死んでしまいました。


 月王家からは太陽王家への責任を追求され、月の皇后であった瀬織津姫太陽の女王と仰ぐ事で、赦しをえた様です、そのため月の女王の瀬織津姫太陽の女王、「天照大日靈女命アマテル(女)」となった様です。


 瀬織津姫徳島県気延山に葬られたのは、母がオオゲツヒメで徳島(阿波の国)を領しており、徳島県が生まれた地でもあった為だと思われます。


 その後も太陽王家の大王はたびたび月王家と反目しあい、卑弥呼世襲足媛)、台与竹野媛)、神功皇后と月の女王を立てられ、そのたびに王家の記録を残さなかった為に詳細が伝わらなかった様です。


 そうした月王家を最終的に引き継いでいたのが、瀬織津姫の直系氏族である「小野一族」でありました。


 律令制に移行の後は、名目上、太陽王家である天皇家のみが大王家としてありますが、実態としてはその後も月王家として小野一族はあった事が伝承される内容から分かりました。


 そんな月王家から生まれた特別な女王が「小野小町」だったのです、そんな特別な女王を妻に迎えようと男たちが頑張った様子は「小野小町がモテモテだった説話」として残されています。


 私はそんな立場であった小野小町の子孫として、隠されている先祖の偉業を現代へと伝える役目を負わされた者なのかもしれませんね。


 この内容は史料を分析した上で組み上げられた歴史解釈になります、淀み無く物語が続いている事自体が真実に基づいている事を物語っていると言えると思います。


 日本の歴史が正しく理解される日は近いと思います。


 龍海