「龍王山」が古代史の謎を解くキーワードの一つとして注目していますが、今回は現代に残る龍王山について詳細について言及したいと思います。
最初に漢字の違い、「龍王山」と「竜王山」ですが、意味があるのでは無いかと推測していましたが、やはり古代人達は漢字を使い分けていたとする考察結果となりました。
山口県 竜王山×2
大分県 龍王山×3
福岡県 龍王山×1
熊本県 竜王山×1
愛媛県 竜王山×1
徳島県 龍王山×2,竜王山×1
香川県 龍王山×3,竜王山×4
広島県 龍王山×5,竜王山×10
兵庫県 竜王山×1
岡山県 龍王山×14,竜王山×9
京都府 竜王山×2
奈良県 龍王山×1,竜王山×1
滋賀県 竜王山×3
長野県 竜王山×1
合計: 龍王山×29 竜王山×36 となりました。
龍王山が29というのは渡来してきた時の龍王が29人いたと示していると推測し(重複がある可能性もあります、一人の龍王が2つの山を領しているなど)、龍王の子が竜王だと考えると、竜王の数がわずかに多いことも説明出来ると思います。
仏教に伝わる龍王の名前は、
この22人はいつの頃の情報かも分かりませんので、少なくとも日本に渡来してきた時は29人前後の龍王が居たと推測した方が良さそうです。(もしくは、八大龍王は2山分を領有し、本当は30箇所の龍王山があるのが正しい可能性もあると思います。)
大山祇となったサクラウチが竜王の地を領していた事は、竜王本人か、その子か孫あたりだと推測出来ます、この事は龍王達の渡来時期が徐市や国常立尊と時期が変わらない事を示していると考えます。
また国常立尊は淡路島に上陸していた事を『神皇記』が伝えていますし、国生み神話でも「淡路島」を国生みの地としている話は「国常立尊」に由来する話だと考えられます。
これらを総合して考えると、国常立尊の率いる船団は淡路島へと土着し、龍王達の船団は淡路島を囲む様に土着している様に見えますよね。
国常立尊は徐市から蓬莱山の「不老不死の実」を採ってくるように言われ「紀元前219年」に出航しています、その後に徐市は国常立尊からの連絡が来ない事から遭難したと判断し、始皇帝に報告して今度は自ら探しに行くことを進言して「紀元前210年」に出航した事になっています。
ここで大事なのは「本当に不老不死の実を採りに行ったのか?」という事でしょう、実は始皇帝と徐市とは近しい関係だと推測しています。
もしかすると異母兄弟くらい近しい関係ではないかとも思っています。
始皇帝は晩年を「神仙思想」に取り憑かれたように書かれていますが、元々、神仙思想を聞いて育っていた可能性があると思っています。
始皇帝の父、荘襄王を秦の大王にまで据えたのは呂不韋(りょふい)だと思っていますが、この呂不韋が始皇帝の母になる娘を荘襄王に与えて生まれたのが「始皇帝」になります。(与えた時には既に身ごもっていたと伝えられています。呂不韋は否定しているので、「他の誰か?」になります。)
呂氏は実は日本人の血筋です!(まだ整理してないので覚えていませんが、神農か黄帝の血筋にあったと思います。)
だから、呂不韋を支援していた人物の一人に徐市の一族がいても不思議では無く、始皇帝の父親は本当は徐市の系統の人間である可能性もあると思っているのです。(これを証明するのは現在、不可能だといわざるを得ませんが。)
状況的には日本へと渡来した「秦氏」なども始皇帝を支援している様子をみると、日本人のグループが始皇帝を擁立して、中華を統一させた可能性もあると思っています。
だから、始皇帝はご褒美に日本へと帰る費用を出してくれたように思います。(建前は不老不死の実を探すという名目で、この事は歴史研究家から疑問視されている内容になります。)
私は徐市が日本へと帰った理由は「富士山の噴火」ではないかと思います、祖国の「蓬莱山」が噴火した事は「神がお怒りになっている」と古代の日本人は考えたハズだからです。
富士山の周辺にいた日本人(王家)へも大ダメージがあったのかも知れません、神の怒り→神へ祈り鎮める事を実施するため、太陽王家と月王家が揃って日本へと戻ったと解釈する方が最も納得のいく説明が出来ると思います。
だから先行して月王家の龍王達と五男の国常立尊は船団を率いて瀬戸内海へと土着し、地域を制圧しながら富士山を目指したと考えます。
しかし龍王山の配置は「富士山」を見つけられなかった事を示しています。(長野県の竜王山は近くまで迫っていましたが。結局、見つけらるまで数十年を要した様です。)
山梨県には「竜王町」という名前があります、これは国常立尊が竜王の誰かと一緒に富士山へと向かい、その竜王が土着した名残だと思われますので、神皇記の記述との一致を見せています。(国常立尊と国狭槌尊は富士山の麓で再会したと書かれています。)
↑ 山梨県の富士山の麓
龍王達はシャカ族や仏陀の歴史から、前386~383年頃にコーサラ国に攻められシャカ族の四皇子は龍王達に匿われていたと推測します。
そして160年後の前219年に日本へと国常立尊と一緒に日本へと移住と推測出来ます、前366~前219までインドにあって八大龍王を中心とした仏陀の弟子が仏教を広め、1世紀頃に中国へと伝播したとされています。
仏教の守護者だったナーガラージャ達(龍王達)は祖国日本へと移りましたが、その後もインドとの交流を残していたと考えます。
大黒天などは「大国主」である大己貴命がインドへと訪れていた為ではないかと考えられ、日本の神話と同じような話がインドや東南アジアに伝わっているのは日本からインドまで頻繁に交流があったことを物語っていると考えられます。(これまでは同じ説話がある事だけは認知されていて、海外から日本に入ってきていると考えられています。)
だから仏教に八大龍王や竜王の詳しい話が残っていると思われ、日本への移住後は日本が仏教の発信地となっていた可能性さえあると思われます。
今日の重要なポイントは龍王山の配置から日本への渡来時期が国常立尊と一緒だったと考えられ、日本へと来た理由が「富士山の噴火」にあり、神の怒りを鎮めるために「太陽と月の祭祀王」が揃って日本へと戻ったと解釈できる事にあると思います。
これにより、月王家と太陽王家とは連絡を取り合っていた事も確認がとれました。
岡山県に住んでいると、誰かがカッコいい名前で「龍王山」とつけたのだろうとしか思いませんでしたが、今回のように「歴史を伝えている」とは思いもしませんでした。(地名が歴史を伝えているのですから、山の名前も同様に注目すべきなんでしょうね。)
昔はなんとなくお釈迦様は日本人だろう、ぐらいには思っていしたが、これほどハッキリと日本との結びつきが見つかるとは思いませんでした。(逆にいえば、お釈迦様からは「私は日本人だ、忘れおって💢」と怒られそうな話ですよね。(笑))
我々は偉大な先人の存在をキレイに忘れていますので、ぜひ皆さんも私の説に納得されたら、他の方へも広めてあげて下さいね、じゃないとお釈迦様もふててますよ〜。(笑)
龍海