超古代から古代の日本を調べていると分かってきた事として、縄文時代には始まっている「陰陽思想(二項対立)」とは、部族を二つに分け構成するというものがあります。
運動会などで白組と赤組に分けられるようなもので、それぞれに「主(ぬし、あるじ)」がいて、それぞれの組を率いていたと考えています。
この組み分けを「太陽と月」にいつから分けていたのかは、最古は紀元前2000年頃だと思われ、日本人としては最大の領域の「主」であった時期になるのだと私は推測しています。
そして紀元前500年頃に世界で活躍していた日本人は、日本へと戻ったグループがメソポタミア→エジプト→インドと月グループに属していた日本人でした。
大月氏族とはその中で月の大王家であった為、インドに入り、ナーガ族(太陽系)と交わって、ナーガ族の一つとなりシャカ族(シャガラ龍王)として大王家であったと思います。
先祖はノア→ハム(ギルガメッシュ)→イムホテプの流れと考えられ、最初のピラミッドを建造した人の子孫だと思います、そしてシャカ族からは仏陀が誕生し、初期仏教を信仰していたと考えられます。
仏陀にはシャカ族の皇子がいました、この皇子も仏陀に帰依したので、一般的には仏陀の子孫はいないとされていますが、それはあり得ない!と今なら言えると思います。(99%の人が仏陀の子孫は存在しないと答えると思います。)
理由としては、
①仏教の修行者は妻帯しなかったのは事実ですが、王族や貴族などが帰依した場合は、在家信者として妻帯していたと思います。(跡継ぎは必須!)
②仏陀の子孫が日本で「龍宮の王」になった事が仏教に伝わっているので、日本に移った以後も仏陀の弟子との交流があったからには、仏陀の弟子から特別視されていた事が分かります。→仏陀の子孫の可能性が大!
③仏陀は中国〜エジプトまで支配領域とした「大帝国」の月の大王家の大王でもあった為、子孫を残したのに、その子供達が子孫を残さない訳がない。(これまでは知られていない為、ただのシャカ族の皇子と思われていた。)
④八大龍王達が大王(仏陀)の血筋で無くなったシャカ族を大王家と仰ぐ理由がない→だから仏陀の血筋が続いていた。
⑤平安時代でも僧侶は妻帯しては駄目でしたが、在家信者(貴族)は妻帯して子を成していました。(かくいう、5代目の小野小町(吉子さん)も在家信者だったと思います。小野家の屋号は「陀羅」で子供達は僧侶だった事が証拠になります。月王家の末裔でもありますしね。(笑))
という事で、私は仏陀の子孫は日本で大王家になっていたと強く主張します。
その後に中国から徐市たちがやって来て、徐市たちは太陽王家ですから、日本の中を「太陽と月」に分け、富士山を起点にして、東を太陽王家、西を月王家に分けたと考えています。
その時から称した月大王の称号が「ツキヨミ」だったと考えるのです。
ホツマツタヱにもイサナギ・イサナミの子としてある為に、個人名のように思われてしまっていますが、本当はその前からアマテルもツキヨミも存在していて、改めて再確認したのがイサナギ・イサナミの時だったと考えるのです。
徐市が渡来してからイサナギ・イサナミまではざっと二百年弱ありますので、十人ほどはツキヨミが居たハズですが、それ程多くの名前は残っていませんので、個人の別は「分からない。」が正解のようです。
それでも少しは残っていて、壱岐の「月読神社」には「月夜見命、月弓命、月読命」と三柱を祀っているのは、少なくとも三人は知られていたからだと思います。(ホツマツタヱでも大己貴命は複数いる場合には使う文字を微妙に変えて表現していましたよね、オオナムチ・ヲヲナムチ・オホナムチ・オヲナムチなどな感じで)
『九鬼文書の研究』にも「月峰命」とありましたので、読み方は「ツキヨミ」でも表現を変えて個人の別を表現していたようです。(その個人が誰なのかは、変わらず不明のマンマですけどね。)
このツキヨミも神武天皇の時に「太陽と月」から「天神と地祇」に変更されましたので、ツキヨミの名前も、もしかするとアマテル〜鵜葺草葺不合命の4代に対応するツキヨミなのかも知れません。
この情報からは少なくとも月王家が出雲にあり、因幡の白兎の伝説を作り、素盞鳴尊は月王家に娘ムコであり、月王家はシャカ族(シャガラ龍王)であった事を示していると思います。
大山積も国常立尊からシャカ族の扱いであり、もともと日本を三百年ほどは支配していた大王家だと言えると思います。
最後に気になるのは「猿田彦」のグループ、クナト王の末裔の存在です。
インドのクナ国のクナト王だった事は伝承されていますが、ナーガ族では無かったという印象が強くあります。(シャカ族はナーガ族の族長になっていますが、クナト王は独立したままだったと思います。)
特にユダヤ系日本人としての情報を強く残していますので、インドには短期間しかいなかったのだと思います。
ユダヤ系日本人がイスラエルを出たのは2700年前、仏陀が誕生したのは2600年前、この百年の間にナーガ族の間にユダヤ教の内容が伝わり、仏陀によって初期仏教へと変化したと考えられます。(中国系のナーガ族にはもともと道教の内容が伝わっていたと思います。)
なので、初期仏教とは道教・ユダヤ教・仏教のチャンポンだったと考えられますが、クナト王たちはユダヤ教の立場を崩さなかったと考えられます。
だから太陽と月に分かれた後でも、クナト王系はそれらに縛られない行動をしていた可能性があると思います。(形の上では月王家の養子扱いだが実質の第三王家、天ナカトミ命が猿田彦だと思います。)
だから、解釈も情報も難しい内容を伝えているのだと思います。
しかし、太陽と月の関係や、八大龍王の存在が分かれば猿田彦の立場も見えてくると言えますよね。
熊本と伊勢は猿田彦の勢力圏だったと思いますし、他にも飛び地のようにある様ですから、まだまだ切り分けが必要だと思います。
徐々にではありますが、日本の歴史を正しく理解出来る日はそう遠くないと思います。
龍海