今日は滋賀県の小野神社の祭神から古代の事を推察するとタイトルに書きましたが、和邇氏への考察やチチハヤの話を理解していないと辿り着けない解釈だと、最後には思って頂ければと思います。


 これは重要な点で、歴史解釈には「必須となる情報」が必要なんです、小野神社の祭神をみて小野氏の先祖だと理解するのは出来ても、小野神社の祭神が和邇氏だから小野氏も和邇氏の支流だと結論するのは「騙されてますよ~」ってなる訳です。(歴史や時間に騙されるってヤツですね!(笑))


 という事で、小野神社の祭神はというと、




 ①天足彦国押人命
 ②米餅搗大使主命
 となっています。

 和邇氏の考察でも示した通りで、この二人は女王卑弥呼の直系の子孫であり、和邇氏(大春日氏)と呼ばれる氏族なのに、小野氏が祀っている祭神になります。

 ②の米餅搗大使主(たがねつきおおおみ)命は「大臣(おおおみ)=後の大臣(おとど)」だったと見られていて、天皇の下で全権を握る「総理大臣」の様な立場だったと目されています。(それを示す史料がゼロなので、みんな推測となっています。)

 では、その大臣だった米餅搗大使主命に何があったのか?(正確には米餅搗大使主命の子供には何があったのか?ですね。)

 結果からみると、時の天皇に味方していたのは間違い無いでしょう、その天皇とは仲哀天皇になりますが、神功皇后の新羅討伐の方が有名になります。


 二人は筑紫にいましたが、仲哀天皇は死に、その後産まれた応神天皇が次の天皇へと即位しました、この時の問題点として、

①仲哀天皇は殺された
②応神天皇の父親は仲哀天皇ではない

 主にこの2点が問題点となるのですが、通常と違うのは神功皇后も卑弥呼と同様に地神から擁立された女王だったらしいという点だと思います、なのでこの時のことは、簡単にいうと地神による大王家の乗っ取りだと思います。

 建前としては応神天皇は仲哀天皇の子とされたと思いますが、疑問はあれど、それを容認せざるを得ない状況に天神側が追い込まれたんだと思います。

 そしてこの時に天神側についていたのが和邇氏なんでしょう!(女王卑弥呼の末裔で地神なのに天神側の人間になっていた事が地神達からの反感をくらったのだと思います。)

 だから、和邇氏の主流派の米餅搗大使主命の子孫が戦争にかこつけて皆、殺されたのだと思います。

 上図の通り和邇氏の傍流は残っているにも関わらず、天足彦国押人命や米餅搗大使主命を小野が氏神として祀っているのは、和邇氏が小野氏に吸収され、和邇氏が廃絶された事を物語っています。(それだけ恨まれる何かをしたのでしょう。)

 この時に和邇氏の領地が小野氏のものになり、その中に「猿女の養田」もあって、その扱いが間違っているとして、小野野主が奏上した経緯が六国史に残っているのは、割と有名です。

 実際には米餅搗大使主命までは良かったのだと思います(祭神として祀られているので)、その子供達は何かやらかして、天皇共々反乱が起きたのだと思います。

 その背景を考えると、天足彦国押人命が180年頃の生まれとなるので、米餅搗大使主命は340年頃になり、天神側は何があったのか隠す為に「空白の4世紀」になったのだと言えると思います。(つまり、再び地神の天下になったので、天神側は記録を残さなかった。)
 173年 卑弥呼(世襲足媛)擁立
 248年頃 卑弥呼崩御
 250年頃 台与擁立(開化天皇)
   〜
 340年頃 米餅搗大使主命
 367年頃 神功皇后擁立
 ※367年という説があるらしい、私の説とも一致するので正しいかも知れない

 と、この様に卑弥呼世襲足媛)からの地神政権の流れが4世紀終わりまで続いたので、空白の4世紀になったのだと理解できます。
 
 だから応神天皇〜武烈天皇までは地神の大王であり、実効支配していたものが、元のルートに戻るイデオロギーにより、継体天皇へと、元の仲哀天皇の血筋へと戻されたと考えます。

 権力を握ると「狂う」のは地神も同じで、武烈天皇も相当ヒドい面があった様です。

 しかし殺されずに百済の大王になっているようなので、やはり権力闘争に敗れたとするのが正しいのかも知れません。

 ところで気づきませんか?

 小野って表立って登場しませんよね!

 しかし地神の跡目は小野が継いでいますし、神功皇后の息長氏は消えてしまっています。(息長氏は新羅の素盞鳴尊系の子孫なので、ハイブリッド地神では無いと言えます。)

 恐らく、地神大王家だから、小野だけは両者を判定する立場にいて、判断を間違えず、正しい方に味方して、争点の当事者の中にいなかったという特徴があると言えると思います。

 だから歴代の小野の氏長者は、立場を超えて正しい判断をしていたのだと言えると思います。(だから逆に何も残らないんですけど。)

 天神や純地神はお互い様のように、相争う事で政争を繰り返しています。

 極端から極端へと移っても、方向性が逆転するだけで、同じ事を繰り返しているだけの様に見えます。(アメリカが良い事例ですかね。)

 つまり政治とは中道(天空神、ハイブリッド地神)が政局を担い、天神地祇の意見を活かして運営する姿こそが、安定した姿だと歴史が教えていると思います。(中道は数が少ないと「日和見(ひよりみ)」とされますが、主流派になれば、最も安定した政権になるのだと思います。)

 歴史とは本来、この様な事を教訓として教えるのが古代からの習いだったハズなんですが、誰が年号と名称を覚えるだけの作業にしたんですかね?

 志のある社会の先生が授業の中で私見を披露する事はあっても、社会の授業としては背景にあるものを説明せず、先生個人に方向性を押し付けているように思いますが、違いますかね?

 龍海