これまで解いてきた古代史の謎達に対する答え合わせをする時間がやってきました!


 小野小町から遡ってメソポタミアまで辿り着き、今度は各時代の解釈をやり直す事にしてみましょう!


 という事で、今日は「前方後円墳」について言及してみたいと思います。


 これは日本最大の仁徳天皇陵(大仙古墳)になりますが、○+□の組み合わせた形だと分かりますね。

 たぶん、この解釈の定説はまだ無いんじゃないかと思いますが、今日は定説になりそうな内容を語る事になるんじゃないかと思います。

 この前方後円墳が作られた時代を「古墳時代」と呼ぶのですが、古墳時代の定義を調べると、「前方後円墳に代表される古墳が盛んに造られた時代、3世紀中頃から7世紀末を指す。」と書かれていて、定説となっている事が分かります。

 3世紀中頃女王卑弥呼台与の後、7世紀末とは律令制となり、喪葬令が制定された頃とするとわかり易いと思います。

 邪馬台国卑弥呼とは世襲足媛83才まで生きて、開化天皇の頃に亡くなりましたが、その後にまたケンカになったので、台与開化天皇妃)を女王として、またまた治めた経緯がありましたよね。

 つまり開化天皇までは両陣営がケンカしていた訳です、しかし崇神天皇からは治まったらしく、それが丁度3世紀後半になります。

 崇神天皇とは別名があり、所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)という名前は「初めて国を知ろしめす(お治めになる)」という意味になり、初めて国を統治した天皇と呼ばれているんです。

 実は「初国知ろしめす」という名を持つ天皇はもう一人いて、神武天皇にも始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)という名前があります。

 だから日本の天皇は「神武天皇から始まった」としているのですが、昔から「初国しらす」が二人いるとして、謎を呼んでいました!

 しかし私の研究から、神武天皇とは「太陽王家と月王家」を並立していた王権が壊れ、新たに「天神地祇」の王家の並立王朝の初代天皇である事がわかりましたよね。(私のブログを読み返して貰えると、色々と書いています。)

 では「崇神天皇」とは何?ってなりますが、その前の開化天皇までは地神達が怒ってクーデターを起こして女王の卑弥呼台与を擁立していた訳です。

 そして崇神天皇からそれが無くなったのですから、真に天神地祇が合意した王権になったという意味だと思います。

 その意味は「宗教が統一された!」だと思います、天神道教由来の祭祀を推奨し、地神ユダヤ教+初期仏教を「国教」として取り仕切ってきた実績がありました。

 私は崇神天皇の時に道教ユダヤ教初期仏教が融合した「日本神道」が生まれたのだと思います、その祭司儀礼の中で「葬送儀礼」が定義され「前方後円墳」へと定まったと考えます。

 円墳天神系方墳シャカ族系だと思われ、サカ族ピラミッド長方墳でしたね、私が見に行った伊邪那美の墓(島根県)は円墳でした。

 お互いに妥協点を見い出し、日本神道として祭祀儀礼を統一した代の天皇が崇神天皇だったんだと思います。

 これ以後は蝦夷以外はヤマト王権として発展していきました、その主流派は「地神」であった為、天神の記録にはほとんど残らず、「謎の四世紀」と呼ばれる事になったと考えます。

 天神地祇で統一されても、記録は天神しか残さないという事は基本的に「天神こそ大王家」という意識が見え隠れします、このオゴリこそが日本の発展を妨げる原因だと思います。(建前は融合で、本音は分離!)

 メソポタミアの話を思い出して欲しいのは、日本人はずば抜けて文化的な知識が飛び抜けていた点です。

 そして文化的に人の心を捉え、武力を持って制圧した大王ではなかったという点です、しかし古墳時代の日本は「血筋」のみで大王家の正当性を主張する「おバカ」になっていたとしか思えません。

 今日は古墳の様式から崇神天皇の一面を考察しましたが、勿論、他の面でも面白い事を発見できのではないかと推測します。

 では今日の結論として、崇神天皇の時に祭祀が統一され、日本神道が生まれ、前方後円墳が誕生したとしたいと思います。

 龍海