今日は世紀の悪者!長髄彦のおっちゃんについて言及してみたいと思います、何故かと問われれば、歴史研究を進めてみると「今に伝わる解釈と真実とではかなり違う」ようだと分かったからです。
まず、長髄彦とは誰なのか? 知らない人にも分かるようにしたいと思います。
有名な神話の一つに「神武東征(じんむとうせい)」という話がありますが、日本はこの神武天皇から始まるされている最初の天皇にまつわる話に登場します。
1800年前頃に九州から奈良へと神武天皇が攻め上がった時に奈良で神武天皇と戦う敵として登場するのが「長髄彦」になります。
長髄彦は神武天皇の兄達を殺し、奈良へ入らせまいと頑張る悪者として伝えられている人物なのです。
ではこの悪人に仕立て上げられている長髄彦とは何者なのか?から進めたいと思います。
長髄彦にはお兄ちゃんがいて「安日彦」といいますが、安日彦はたしか大和の纏向あたりを統治していた領主になります。
大和(今の奈良県)から紀伊の国にあった豪族というのは、出雲王朝の素盞鳴尊が指名した人達が配置されている事が(どれだったか忘れましたが、たしか『九鬼文書の研究』だったと思います。)本に残されています。
そのお陰で色々と分かる事になるのですが、長髄彦は天太玉命の孫にあたる事はホツマツタヱから分かるのですが、その両親について書かれているものは無さそうです。
その理由は何故か? それが知られると色々と分かってしまうから、伏せられたと考えるべきでしょう。
春日神社の祭神や他の伝承から、私は長髄彦の両親は「猿田彦と天之鈿女命(アメノウズメ)」だと考えています。
なので、長髄彦は猿女君の末裔となるハズのなのですが知られていません、しかも天之鈿女命が猿女君になった事は書かれていても、その末裔には後の方になって稗田阿礼(奈良時代)などが、末裔あたるとされるのみで、猿田彦と天之鈿女命の事は大きなイベントとして表現されているのに、その後が伝わらないのはオカシナ話です。
猿田彦というのはインドから渡来したクナト王の直系の一族にあたり、代々のリーダーが「猿田彦」を名乗りますから、長髄彦の父の猿田彦は「最後の猿田彦」だったのだと言えると思います。(猿田彦の継承する持つ権能が猿女君へと譲渡されたので、天つ神連合に組み込まれた形になっています。)
では猿女君の皇子、長髄彦の立場とは? クナト王とは徐市たちよりも前に日本に帰っていたインド系日本人であり、ドラヴィダ系日本人でもあります。
なので、キルギス系日本人よりは立場が少し弱かったのだといえます。(王ではあるが大王には成れない血筋。)
また宗教的にも純粋にユダヤ系(シャカ族ではないので)だったと思える事から、ユダヤ系日本人の保護者となってくれた「素盞鳴尊」の絶対的な信奉者であったと考えます。
そのうえで大和の飛鳥は素盞鳴尊が開いた高天原であり、大和の国は出雲王朝が全国から各部族を年に一度集め、高天原と呼ばれる全体会議兼宴を催す場所であり、王権を象徴していた国でもあったと考えます。
長髄彦の背景はこのくらいにして、今度は天つ神連合の方に目を移して見ましょう!
天つ神連合とは国常立尊・国狭槌尊の系譜を王家としてインド系日本人の王家、シャカ族も王家として迎えた連合国を意味していますが、アマテルとツキヨミという太陽・月を基本とする連合国家の中に、太陽王家と月王家が共存する体制だったと思っています。
大王を決める過程において瓊瓊杵尊の皇太子が「火明命」であった事は、諱が「ムメヒト」である事から分かっています。(〇〇ヒトという諱が皇太子の諱としてつけられる慣習があるから。)
しかし結果から言えば、次の天皇には鵜葺草葺不合命になっており、次の皇太子は五瀬命になっています。
この疑問は置いといて、この時に天皇の証となるものが二つ存在していた事が、「お家騒動」の発端としてあると思います。
一つはお馴染みの「三種の神器」で、もう一つが「十種神宝(じゅっしゅのかんだから)」です。
もともとはこの両方をアマテルの頃から持っていたのてすが、鵜葺草葺不合命と饒速日命の時には十種神宝は饒速日命が持っていたのです。
人によっては十種神宝とはユダヤ系の神宝だと言われる人もいたと思いますので、それが正しいのかも知れませんが、私はまだ調べてもいません。(マホロさんからツッコまれそうなので、クワバラ、クワバラ……)
その間接的証拠が饒速日命が大和の皇君という立場にあった事です。
東日流外三郡誌には「皇君」という立場があったことが書かれていますが、天つ神連合の時は王権が並立していた印象があるのです、しかし後のヤマト王権の影響からか、それを他では記述されていない為、「偽書」扱いされて葬られたというのが真相だと思います。
つまり本当は太陽王家と月王家は並立して存在し、饒速日命は月王家を継承して大和にあり、それを長髄彦がそれを補佐していたとする解釈も成り立つのです。(状況証拠からの推論的考察になりますが、多くの場合、この方が真実を捉えている事が多いので、後から証拠は見つかると思います。)
この解釈に従えば、大和入りを希望した「五瀬命」や「神武天皇」は「侵略者」であり、「饒速日命と長髄彦」は防衛戦を戦っていたともとれる訳です。
だから青森へと逃げた後、長髄彦と安日彦は「ヤマトを奪われた」と主張し「東日流外三郡誌」を残すに至ったと考えると、書かれている内容が理解出来るようになります。(全てが正しい訳ではないとは思いますので、この辺りはお互い様だと思います。)
長髄彦の立場は純地神、神武天皇は天神、両者を止めたのがハイブリッド地神(天空神、天と地の間にあるから?)の小野を筆頭とする出雲・尾張・諏訪などでしたので、その結果に責任があることになります。
結果としては太陽王家(本家)は継続して神武天皇にあり天津日嗣の立場を継承し、饒速日命は月王家の立場を剥奪され、その代わりに息子のウマシマチを物部氏として、全国の物部に号令できる、実質の大王としての地位を与え痛み分けとし、太陽・月王家を廃止して「天神地祇」と枠組みを変え「天神王家を神武天皇の系譜」、「地神王家を、この戦争を治めた小野氏が務める」事になったのだと思います。
この考察からは「長髄彦って悪者って訳じゃ無さそう」ってなりませんかね?
結局は日本の支配権を争っての行動だったと思います、双方に正義があった為、痛み分けになったとも考えます。(つまりお互い様だとハイブリッド地神達が判断した!)
日本の歴史はこうして始まった「大和王権」による記録が「正史」とされてきましたから、長髄彦は悪者になったんだと言えると思います。
「偽書」とされている本は大和王権に都合の悪い事を記録している為に、「偽書」になっているとも言えそうです。
しかし偽書とされているのに、ずっと残って来た理由は、そこにも正義があるからでしょう。
私達、子孫はご先祖たちの「良いところ」も「悪いところ」も正面から向き合う必要があると思います。
それを邪魔をする人達など蹴散らして、日本の歴史を見直しましょう〜♥
龍海