小野氏といえば「京都」、「近江(滋賀県)」という印象が強いと思いますが、実は福島県というのは小野一族にとっても関係の深い地でありまして、私もまだ全貌が見えていないほど何かしらの「深い因縁」がある地のようです。
小野氏に関係するメジャーな伝承だけでも、
①有宇中将と朝日長者の伝承
②猿丸太夫の伝承
③戦場ヶ原の蛇と百足の伝説
④小野小町の伝承
⑤小野篁の伝承
などがあげられるかと思います。
私はこの①~⑤については説明が出来ますが、「どうして①~⑤の伝承が福島県に集中したのか?」という問いには今でも答える事が出来ません。
りまりまさんが、今度、小野町へと行かれるそうなので(もう行った後かも?)、援護射撃の意味でも触れたいと思います。
じつは上記の伝承、①~⑤は全て繋がっています! 独立した伝承として伝えられていますが、小野毛人から小野篁まで、小野氏長者が福島県を大事にしている様子が先の5つの伝承なのです。(だから大事にしている理由が分からないので答えられない。)
伝承の内容は検索するといくらでも出てきますので、この場では解釈だけをお伝えしたいと思います。
朝日長者という言葉は大和朝廷寄りの豪族のことで外従五位下以上の豪族に許された「称号」になり、奈良時代の一時期に称されたもののようです(説明の記録があります。)、以前の私は朝日長者は「蝦夷の系譜で高皇産霊尊の血筋」だろうと推測をしていました。
福島県は「日高見国」に近く、小野氏と高皇産霊尊との関係から推測したものだったのですが、それは大間違いだったようです。
小野一族が「地神大王家」であり、律令制となった時に、全ての小野家は「外従五位下」に叙せられ「国司待遇」となった事は最早明らかだろうと思うからです。
全国に「朝日長者」の伝説があるのは、全国の小野家が皆、「朝日長者」名乗った為ではないかと今では思う程です。(普通に地方の豪族が外従五位下を得るのは大変な事なので...)
そして伝承の研究成果から、「有宇中将とは小野毛人(えみし)の若い頃の名前」だと分かっていますので、小野毛人が福島県の小野氏へと身を寄せていた時に生まれた子が「馬王」になります、馬王とは「小野毛野(けぬ)」のことで「上毛(じょうもう)に住んだから、毛野」という通称になったらしいんです。
そして馬王の子の一人が「幼名を猿若丸といい、初代の小野猿麻呂」だと思います、小野猿麻呂は戦場ヶ原での大戦に参加し、大きな手柄を立てて叙爵をされて「小野鎌麻呂」と名前を変えましたので、その後のことは全く知られていないようです。
小野猿麻呂は外従五位下に叙爵されていますので「太夫」を名乗る事が出来ます、猿麻呂を略字で書くと「猿丸(さるまろ)」となりますので、猿丸太夫の一人は小野猿麻呂の事になりますが、百人一首にある和歌を詠んだ猿丸太夫とは別の人物になります。
ちなみに小野馬養と小野牛養は小野猿麻呂の異母兄弟のようです、この二人の伝承も小野猿麻呂の末裔(日光の二荒山神社の神官をしていた家)に伝承されていました。
大蛇と大百足の戦争は瀬織津姫(龍神)の末裔で眷属の小野氏を「大蛇」とし、百済からの渡来者で蝦夷に与していた豪族を「大百足」と表現した、現地の覇権をめぐっての争いだったと私は認識しています。(その後、小野猿麻呂が国司待遇になっているので、福島県が朝廷の支配下になっていない時の話のようです。)
そして初代の小野猿麻呂がまたまた「別の朝日長者(たぶん小野氏)」娘、寒日姫の間に生まれたのが二代目の小野猿麻呂のようです。
そして二代目の小野猿麻呂が居を構えたのが、福島県田村市滝根町猿内という地でした、小野猿麻呂は福島県全域を掌握していましたので、朝廷にとっても小野氏にとっても「要衝の地」だった訳です、蝦夷の討伐の拠点が置かれたのもこの地であった事が書かれていたと思います。
なぜなら征夷大将軍の坂上田村麻呂はこの地で生まれたから(田村氏の本拠地)で、坂上氏と小野氏とはその後も連携をとっていた政治同盟者なのです、ちなみに征夷副将軍は小野永見ですから、福島県の田村市や小野町は小野氏と田村氏・坂上氏の同盟の証明地のようなものなんです。
そんな福島県の小野町へ小野岑守が国司として遣わされ、小野篁を伴って赴任します、小野篁は早熟な子供であったようで、この地にきてすぐ下女との間に子供ができます、それが「小町ヶ姉」で私のご先祖、小野吉子の姉になります。
小町ヶ姉も才女であったようです、福島でも亡くなった地(茨城県)でも「小野小町」と伝承されていますので、「準小野小町」とすべき存在なのですが、小野小町として後宮へと上がった様子はありませんし、何より妹の吉子が「小野小町」としてあった事を自慢していたようですから、「小町ヶ姉」と名乗った事も妹を自慢していたからだと思います。
そして小野篁は福島県で小野猿麻呂を紹介され意気投合し、小野猿麻呂から直接に弓と馬の扱いを学びました、達人直伝の教えで小野篁も大男で運動神経も良かったと思いますから、帰って来た時には弓馬の達人になっていて、嵯峨天皇から「漢詩に優れ侍読を務めるほどであった岑守の子であるのに、なぜ弓馬の士になってしまったのか」と嘆かれた話は有名です。
やんちゃがしたい盛りの頃に日本一とも言われる小野猿麻呂に鍛えられたら弓馬の士にもなりますよね(笑)、しかし出会いはそれだけではなく、小野猿麻呂の娘を妻に貰い生まれたのが、うちのご先祖、小野小町こと小野吉子なのです。
これは小野吉子の生年を特定すると、すっぽりと小野岑守と篁が福島県にいた時の年号に一致し、かつ滝根町に小野小町の産湯の水や小野猿麻呂の家があった事などから断定できたものになります。
小野篁と福島県とのつながりはその後も続きます、小野篁は隠岐へと流されましたが復職してすぐに福島県へ「小野六郷」を開きました、これは天皇からの「お詫び」だったと考えられ、当時の荘園を開く許可というものは「天皇の特権」だったと考えられます、これは不当に朝廷から罰せられた事への慰謝料だったと思います。(背景として朝廷(主に藤原氏)との冷戦構造があり、小野篁を担ぐ小野氏や地神の豪族達から藤原氏(朝廷)討伐の機運が高まっていたのではないかと私は推測しています。だから嵯峨天皇が戦争を回避したと思います。)
そして小野篁が死ぬ前後になって、やっと息子二人の遠流が解かれました、その内の一人が、六代目の小野小町の父、小野良実になります、良実は福島県の小野六郷を譲り受け、自身の領地としたため、妻の愛子(めづらこ)と娘の小野比古姫(六代目の小野小町、後の小野氏野)も福島県の小野町へと移り住んでいるのです。
つまり福島県の小野町(滝根町を含む)とは、坂上田村麻呂、小野永見、二代目の小野猿麻呂、小野岑守、小町ヶ姉、小野吉子(五代目の小野小町)、小野篁、小野良実(坂上当澄、坂上氏からの養子、坂上田村麻呂のひ孫)、文室愛子(めづらこ)、小野氏野(六代目の小野小町)、小野寵(長男、後の良房)、小野良行(次男)など小野小町の関係者がズラッと関係する地なのです。
この事が歴史の中で埋もれているなど、逆に不思議な場所になります。
ぜひとも、これを知って現地に訪れて欲しいと思います。
また福島県の皆さんや全国の小野小町ファンにも知ってもらいたいと思います。
龍海