小野氏の中で「武将」として活躍したのが武蔵七党に数えられる「横山党・猪俣党」になりますが、彼らは本姓が小野氏だとしながらも後世の人達からは「嘘じゃないの?」と思われている原因は系図にありました。

 

 横山党や猪俣党の系図には明らかに作り込んだ内容を伝えるものが多くあった為、信用出来ないと思われていたからです。

 

 この間違った系図が生まれた理由は士官をする時にどの氏族であったかを示す必要があり、恐らくあまりに急速に拡がった為、多くの家で系図を継承できず、必要上やむをえずねつ造したと考えられるからです。(系図を必要としない時代に広がった為だと思います。)

 

 しかし残されている系図情報には「本物」もあり、私は広島県の横山氏の家に伝わる系図の情報を目にし、書かれている内容を検証したところ正しいことが確認出来たので、今では堂々と横山党・猪俣党は小野篁の息子、小野守秀の子孫にあたると公言しています。

 

(広島県の横山氏の系図を元にしたもの)

 この中に小野守秀の幼名が「隠岐小太郎」とあるところや、小野経兼の幼名が「隠岐鬼若丸」という事に着目しました、これは小野篁が遣唐使船の乗船拒否をした時に隠岐の島へと遠流になりますが、この時に子供を設けたのではないかと推測できます。

 

 隠岐の島の伝承にはこうありました、

「(二)「阿古那伝説」

 この伝説は、(一)の後の話である。

 島後都万村那久に転居した篁は、光山寺から五箇村小路の願満寺に通っていた。篁はその途中に宿をとっており、そこには阿古那という里で一番の美女がいた篁と阿古那は恋に落ちるが、間もなく篁が許され帰京することになってしまう。篁は阿古那との別れの際に、「顎無地蔵」という一対の仏像を阿古那に与えた。この仏像は現在も歯痛が治るご利益のある仏像として伝わっている、という内容である。

 この伝説には、内容が少しずつ異なるものがあと二つ伝わっている。

 一つ目は、阿古那の母が歯の病に苦しみ、阿古那が看病しているのを見て、阿古那の親孝行ぶりに篁は心を打たれた。そして篁は、仏像を彫り阿古那に与え、阿古那は一心不乱に祈願した。すると母親の病は治ったのであった。のちに母親が死んだ際に母の霊と篁の仏像を祀り、それが「顎無地蔵」とされた、という内容である。

 二つ目は、阿古那自身が歯痛の病であった話である。苦しむ阿古那を哀れんだ篁が仏像を彫り、阿古那の歯痛は治る。そのため阿古那は、篁をもてなし、やがて二人は恋に落ちるがその後二人の子どもは死に、さらに篁が帰京することとなり、阿古那は悲しんだ。その別れの際に篁は阿古那に二対の仏像を残していき、それが「顎無地蔵」である、という内容である。」

 

 この顎無地蔵ですが現在、隠岐の島にもあるという事になっていますが、これは後世に作り直されたもので、小野篁が作ったものは大阪に現存していました。

  (↑ 大阪の東光院萩乃寺の「あごなし地蔵」)

 

 この背景についても知る事ができました、遠流という罪は身の回りの世話をする婢(はしため、下女)を連れて行けないことになっていますので、普通は妻を連れていくようなのですが、小野篁は妻を連れて行かなかったようです。

 

 その事もあって小野篁は隠岐の島で会った「阿古那」を妻に迎えたのだと思います、事情を知らない島民達はいい仲になって子供が出来たぐらいに思っていたのでしょうが、恐らくはになっていたと思います。

 

 隠岐の伝承には別伝があり萩乃寺に伝わる伝承では、

「平安初期の参議で歌人としても名高い小野篁卿が承和5年(838)12月、隠岐の島へ流されたときに阿古という農夫が身の回りの世話をしました。ところがこの阿古は歯の病気に大層苦しんでいたので、世話になったお礼にと、篁卿は代受苦の仏である地蔵菩薩を刻んでこれを授けました。阿古が信心をこらして祈願するとたちまち病が平癒し、卿も程なく都へ召し返されたので、奇端は偏にこの地蔵尊の加護したまうところと、島民の信仰を集めました。
その後、仏像は島の伴桂寺にまつられ「阿古直し」がなまって尽には、「あごなし地蔵」と呼称されるに至ったといわれています。」とあります。

 

 小野篁は阿古那を妻として扱っていますので、出来た子供が成人したら京へと寄越すよう言い残し戻っていったと考えます。

 

 その子が小野守秀であることは最早、疑いようが無いことでしょう、小野篁は守秀をかわいがっていた様子も在り、小野照崎神社とは元々が浅草にあり、小野篁の屋敷があった地にあったのだと思います、「上野」という地名は「小篁の屋敷」があったとする説が有力だとする情報もあったと思います。

 

 また不忍池にはかつて「瀬織津姫」が祀られていたのは、小野氏の氏神として祀っていた可能性もあり、小野篁と守秀は共に浅草にいて、小野守秀はそのまま浅草へ土着し篁の死後に小野照崎神社を勧請したと考えられるのです。

 

 では小野照崎神社を勧請したのは誰かとなりますが、小野守秀いがいに居ない事が根拠になります。(他の子供たちは小野俊生を除き分かっていますし、関東からは横山党・猪俣党が出ているのでそれが最大の証拠になります。)

 

 小野篁の子供達は小野篁が死んでのちに、一斉に小野篁を氏神として祀っている様子が残されています、これは小野篁を始祖とする小野家が生まれた事を意味し、小野篁を家の守り神として祀るとともに、小野篁を神として祀るいわれがあった事を示すのものになります。

 

 横山党・猪俣党の出自はこれで証明出来たものと思います。

 

 次は何故、横山党と猪俣党だけが武士になったのかについて言及していきたいと思います。

 

 小野氏は地神王家としてありましたが、律令国家へと移行し小野妹子からは中央政治へも官吏として参画する様になりました、小野氏の役割はもともとが地方政治にあり、地方の豪族達の調整役であって、中央政治は天神王家の天皇家の役割でした。

 

 小野氏は中央政治に参画していましたが、平安時代中期以降は出仕せずに地方政治に専念するようになっています、これは朝廷を支配した「藤原氏」たちに愛想をつかし、朝廷そのものを見限った為であろうと考えます、しかし小野家天皇家大王家の表裏であり、天皇家そのものは最後まで支えようとしていたようです。

 

 その中で反朝廷とも呼べる鎌倉幕府を興した源頼朝に合力した横山党・猪俣党は天皇家に反乱した結果でしょうか?

 

 それは違うということが我が家の先祖の動きから知る事が出来ました、鎌倉幕府を興した源頼朝、源義経のそばに小町小野家の女たちがいたのです、当時の小町小野家は小野氏長者であったと考えています、つまり小野氏は鎌倉幕府を応援していたことになります。

 

 その証拠は岡山県にも残されていましたので、間違いのないことだと思います、小野家と天皇家は朝廷を実質的に乗っ取られていることに鑑みて、源頼朝にその現状を壊して欲しいと考えていたのだと思います。


 しかし結果的には鎌倉幕府が興ることになり、天皇家の望み通りにはならず、小野氏としては日本の舵取りを朝廷に任せられないと考えていたので、鎌倉幕府が興った事は仕方ない反面、よりよい方向性が生まれたとも考えていたと思います。

 

 その中で横山党と猪俣党とは鎌倉幕府の「」であった訳ですから、小野氏を代表して各地へと分散して、天皇家の小野鎌倉幕府の小野として地方へとにらみを効かせる存在だったと考えます。

 

 

 西日本には鎌倉幕府が強権を振るわなかった理由も小町小野家が備中に在り、協力体制が築けていた為だと考えます。

 

 横山党と猪俣党の役割は「ただの武蔵七党」の一つなどではなく、小野氏として鎌倉幕府の中でのパイプ役として重要な役割を担っていたと考えます、その証拠は武士をやめた後には「小野」へと名乗りを戻す家も多く在り、横山や猪俣としてよりも「小野」として活動していた事を示していると思います。

 

 龍海