今回、古代史の暦を読み解く上で、ホツマツタヱをじっくり読むことになりましたが、そこで覚えた違和感があります。


 一つは「アマテル」の最期を誰も知らないのではないかという事です。


 ホツマツタヱにはアマテルの事が出てきますが、書かれている内容には「うそだろ〜」という内容ばかりで、前から違和感を持っていたのです。


 しかし、アマテルの生誕年が実は瀬織津姫の生誕年だと分かれば話は簡単です!


 アマテルとモチコ(ヤマタノオロチ)が素盞鳴尊に戦争を仕掛けて以降、早々に表舞台から消えていたと考えると辻褄が合います。


 暦の解釈も何故、天忍穂耳から変わったかと考えたのか、それは素盞鳴尊から最新の暦(時間)を教わったからではないかと考えた為です。


 日読みや月読みは専門職がいて、日夜計測していたでしょうが、時間はどの様にカウントしていたのか?

 昼は日時計も可能でしょうが、夜などはどうしていたのか?

 私は可能性として水車などの回転数が一定な物を時間として利用していたと推測しました。

 これも普通の川ではなく、富士山の周りに住んでいたなら湧水池があった筈です、そこの流れなら1年中一定量の水がながれ、それによって回った軸が糸を何本巻けるかで昼間にカウントし、巻ける量で時間を測っていたんじゃないかと考えたのです。
 だから日の出から南中までで4本巻ければ、4倍して1日を16穂に定めていたとします。

 そこへ中国から渡来した徐福(素盞鳴尊)が最新技術を伝えると効率が上がり、日の出から南中までで16本巻けるようになり、1日が64穂になったりしたのではないかということです。(技術の進化が時計の進みを変えたという考え方。

 またホツマツタヱにのるアマテルの年齢は「天照大靈女命(瀬織津姫)」の事で、瀬織津姫ならとても長生きした事になります。(逆にアマテルの事は何も分からない。

 卑弥呼小野小町も巫女になる様な女性は神からの加護を得られるとしか思えないほど長生きをしています。(卑弥呼83歳、三代目小町88歳、五代目小町81歳、六代目小町69歳、平均は40歳代なのに……)

 なので瀬織津姫は100歳を超えていた可能性があると思われ、皆から生き神と称えられていたと思います。(実際に神を降ろして皆に語りかけていたでしょうから、文字通り生き神様ですよね。)

 だから天孫・瓊瓊杵尊などの伝説が残り、天忍穂耳の死後も瀬織津姫が生きていたので、瀬織津姫(天照大靈女)から皇位継承の伝説が生まれたと考えます。

 では素盞鳴尊との関係はどうなのか?

 私はかなり良好だったと考えます、瀬織津姫の妹の稚桜姫も素盞鳴尊の子を生んでいるようですし、瀬織津姫とは関係は良好だったと思います。

 しかし反面、素盞鳴尊は大山積系の大王(妻が稲田姫で大山積の孫)として出雲王朝を立ち上げ、瀬織津姫は大山祇(大山積の娘が富士山を祀る権利を継承した新しい家。)の娘で、王家が「大山積系」に乗っ取られたと見ていた人も多かったと思います。

 それが素盞鳴尊をディスる神話になり、天照大御神は女性で、瀬織津姫とは別人みたいな神話になっていったのだと思います。(ホツマツタヱには瀬織津姫の事を余り書いていません、つまりホツマツタヱ成立時には既に瀬織津姫の実績がアマテルの実績の様に書かれていた事になります。)

 どの国の歴史書も自己都合に歪められるのは歴史を研究するものからすれば当たり前の行為にも見えます、その点でいえばホツマツタヱなどは割と正直に書いている方だと思います。

 ホツマツタヱでさえコレですから、他の史料はもっと歪んで伝わっているといえます。

 しかし何とか読み比べ、真意を汲み取れば当時の状況は見えてきましたので、もう少しでほぼ全容は分かると思います。

 これで紀元前210年までは辿れましたが、ここからが未知の領域になろうかと思います。

 ユダヤ人との関係やクナト王と一緒に来た人の中にも倭人が居たとしか思えません。

 縄文土器は世界最古の焼き物ですから、一万年以上前から倭人は世界へと進出していて、メソポタミアまで行っていた事は確実だろうと思います。

 それを何をもって証明したら良いか、少しアテはありますが、有力な証拠になりえるのか?

 日本の歴史はまだ、解き始めたばかりなのかも知れません。

 龍海