いい感じに前回の古代史における暦の分析を忘れて来たので、再挑戦をしようかと思い、ホツマツタヱの暦を調べていて、「」という単位は「」だなという事に気づき60進法で運用する単位と気づいた時点で、検索していると吉田六雄氏が解読に成功している事例がある事に気づきました。

 

 

 実はまだ、今さっき少し読んだだけですが、私の仮説と一致するので、吉田氏の解釈は正しいのだろうと思います。

 

 私の仮説とは、日本にやってきた徐市一族は、日本に王族らしい王族がいない事に気づいた事で、最新の文明を持っていた事もあり「王様」になろうと考えたハズです。

 

 王様の権威として最も顕著なのが、実は「」です。

 

 江戸時代においても、暦を誰が発行するのかは重要な権利だった事は、暦に関わる歴史に触れたことがある方には分かる話かと思います。

 

 気になる方は冲方丁の「天地明察」などを見てもらえればと思います。

 

 徐市は紀元前210年に七男のクニサツチと共に日本へやってきました、そこで「暦」を定め「秦」とは違う暦を定めたと考えたとするのが私の仮説になります。

 

 新たな王となった徐市が日本のある日(基準日)から暦を刻みはじめて、その残されているものが神皇記やウエツフミ、ホツマツタヱなどの紀年歴だと考えた訳です。

 

 表現はそれぞれですが、ホツマツタヱのものが情報が多く、解釈も載せられているので分析はしやすそうだったので、私もホツマツタヱから解こうとしていましたが、ありがたいことに先行研究が先にあったのです!(私はこういった基礎研究も嫌いではないのですが、飽き性なので、気分が乗らないとやらないという弱点を持っています。)

 

 ホツマツタヱに残る記述ではアマテルの誕生が「21鈴125枝31穂」とホツマツタヱの暦の研究から逆算出来るようです、その上でアマテルの生まれた日は「120万7520」という数字が書かれています。

 

 当然この数字は暦だろうと考えるのは共通で、吉田氏はこれらの過程から1日が16穂である事に気づき、6000倍曆で記述されているという結論に至ったようです。(アマテルとヲシヒトの時代はという意味ですが)

(↑吉田氏のホツマツタヱ史学から引用しました。<(_ _)>)

 

 なので「21鈴125枝31穂」とは206年という逆算結果となりました。

 

 徐市から数えて9代目がアマテルになりますから、8代で206年なら25.75年/代と許容範囲にあると思います。

 

 まだこの時代は、とくに連合国家という訳では無かったので、一族の中での相続ですから基本的には長男ですが、時には二男や三男になることも多かったと思いますので、この代数で平均25.8年というのはあり得る数字だと思います。

 

 つまりアマテルは紀元前3~5年頃に生まれたのだろうということになります。

 

 これは私の研究結果とも一致しており、私は最初の頃からアマテルや素戔嗚尊は紀元前後の人物だろうと言ってきました。

 

 後は系譜とその在位年数とで大まかな年表を作れば全体的な様子は分かるのですが、実はまだ四倍曆になっている原因は突き止められておりません。

 

 吉田氏の分析でも四倍曆という解釈はありませんでした、つまり「正史の四倍曆」の謎を解けば日本史の謎はほぼ全てクリアされることになるのです。

 トップダウンからは紀元前210に渡来の徐市から9代目のアマテルの生まれた年まで206年、ボトムアップからは和邇氏の代数と在位年の比較から神武天皇の即位年(今は131年、補正されて126年)までの西暦の推定。

 

 この間をつなぐ謎と四倍曆を解くのはいつの日でしょう?

 

 これまでも、もう解けないかなと思っているとアッサリ解いてきたので、案外すぐに解くかも知れませんね。(笑)(^^)V

 

 龍海