次に訪れたのは茨城県稲敷市小野です。

 

 ここには小野小町の伝承も無く、全く注目されていない土地ですが、行ってみてビックリ! 小野神社に手がかりが無いか期待していったのですが、神社はかろうじて存在している状態で、地域の寄り合い所と言う方が相応しい状態になっていました。

 あちゃ~、これは手がかりは無いわ!って思っていたところ、周囲を散策すると思わぬ景色を見ることになります。

 上の地図上で「小野観音奉賛会」という表示のところには立派な邸が建っていました。

 写真ではわかりにくいと思いますが、個人の邸と言うよりも出雲大社のような立派な寺社といった方が良いような造りでした、元の用途は知らなくて、検索しても出てこないのですが小野氏の屋敷跡ならば、相当大きな力を持っていた事が分かる建物でした。

 

 残念ながらここでも手がかりは無く、感心だけして隣へ歩いて行くと、そこには「慈雲山 逢善寺」というのがありました、予備知識を持っていなかったので、ビックリしたのはその造りです、どれだけお金を掛けたのか!? 私も色々と神社や寺を見てはいますが、大きさに似合わない豪勢な造りは一見の価値があると思います。

 

 全く知らなかったので、衝撃を覚えた程です。

 寺紋には三つ葉葵がついていましたので、水戸徳川家の庇護にあったお寺なんだと思います、そして小野小町につながる手がかりはここにありました。

 由緒書きによると、「天長三年(826)の開基で、小野篁の上洛の砌(みぎり)、淳和天皇の奏聞に達し」とあります。

 『當山由緒』には小野篁が建立にも携わった事が書かれています。

 

 平安時代初期の稲敷市小野には小野氏(おそらく小野真野の後裔)が土着していたのだと思います、足利学校小野篁の創建と伝えられていることと併せて考えると、ちょうどこの頃には関東周辺に国司として来ていたのだと考えられます。

 

 小野篁小野岑守の息子ですし、その博学ぶりは子供の頃から鳴り響いていましたので、稲敷市小野氏も邸にまねいたのだと思います、それは天長三年の前でしょうからちょうど、小町ヶ姉12才になる前であり、婚姻を結ぶ適齢期でもあります。(当時の結婚は早く、実際の夫婦関係になるのはもう少し後ですが、女子ならば12才頃に相手が決まるのが普通の時代でした。)

 

 稲敷市小野にいたのは小野真野の後裔と思われ、小野真野少納言になっていますので、小野氏のなかでも実力者であったと思います、826年ならば小野真野が存命中なので、直接真野から娘をくれと言われて断れなかったのだと推測します。

 

 そして真野は自分の領地にお寺を勧請する為、小野篁に上奏させ許可を貰ってお寺を建立したと考えられます。

 

 つまり結婚したのは小野真野息子か孫小野篁の娘で815年陸奥で生まれた娘であると考えられ、小町ヶ姉の嫁ぎ先である「常陸(ひたち)」の要件と、土浦市小野で亡くなった小町ヶ姉(小野小町と伝承されています。)とに一連の関連性が生まれ、土浦市小野で亡くなったのは小野小町ではなく、小野小町の姉、我が家の先祖、小野吉子の姉だということになるのです。

 

 稲敷市小野に寄った甲斐があるというものです!

 

 小野篁が直接、稲敷市小野にあった小野氏と関係をもっていた証拠が見つかったのですから、十分すぎるほどの成果です。

 

 これにより、私は土浦市小野で亡くなったのは「小町ヶ姉」だと確信にいたりました、これも繰り返しになりますが、小町ヶ姉小野小町に比肩する女性だったと考えます。

 

 妹の吉子が自慢で、わざわざ「小町ヶ姉」と名乗ったのも、小野吉子小野小町として類い希なる女性で、その一番の理解者が姉だったのだと思えるからです、だからこそ妹を自慢し、その自慢の妹の姉として、「小町ヶ姉」と名乗り和歌を詠んでいたからだと思います。

 

 龍海