神武東征について何度か検証しましたが、浅く情報を検証するのみではモヤモヤして納得できなかったので、今度はホツマツタヱの情報も加え、物理的、史料的に矛盾の無いように検証しました。
ここで一つ分かった事として、神武東征にはクシミカタマは従軍していない事がホツマツタヱから分かりました、長髄彦は邇芸速日命に子供が出来ないので、春日家に伝わる代嗣文(子を授かる文)を求めたが、教えてもらえないので留守の時に盗み写した為、怒ったホツマ国(茨城県のあたり)や日高見国(岩手・宮城・福島)からの食料を積んだ船を出さなくなったそうです。
これによって食料輸送が止まったので、クシミカタマは長髄彦を討とうとしたようです、しかし五瀬命がビックリして弟で皇太子だった神武の元である筑紫へと逃げた様です、五瀬命が逃げたのでクシミカタマは多賀宮を守っていた事がホツマツタヱに書かれていました、だから筑紫へは随行せず滋賀県の多賀宮(多賀大社の所)に留まっていたようです。
また五瀬命が皇太子だと思っていましたが、神託から五瀬命には子供が出来ないと聞いていたので、皇太子は最初から神武だったようです、この時代はまだ大枠である大山積と高皇産霊尊の部族連合国家なので、それぞれの支配領域は独立採算による独立国家であったと思われ、『東日流外三郡誌』によると長髄彦は柏原高御倉(のちの橿原の王)、安日彦は磯城高御倉(磯城の王)だったようです。
大和(奈良県)の中は16に分割されて、それぞれに王(後の県主だとおもいます)を置いていたようです。
・城陽高御倉 ・・・ 高毛野命
・長丘高御倉 ・・・ 砂土毛野命
・向日高御倉 ・・・ 佐津貴依命
・高槻高御倉 ・・・ 宇津呂彦命
・交野高御倉 ・・・ 手塚御毛命
等々
その中で邇芸速日命はアスカ国(カグヤマ皇君)、つまり今の奈良県全域の大王としてあったのだと思います、邇芸速日命は長髄彦の妹を妃にもらっていますので、長髄彦は邇芸速日命を天つ日嗣にする野望があったと思えます。
本来ならば長髄彦を罰する必要がありますが、しなかった為にこの騒動が起こったともいえる様です。
その後はこれまでの解釈で良い様です。
ただ、ここで一つ疑問が深まった事があります、ホツマツタヱはクシミカタマが最初に記述し始めた歴史書なので、当然、小野氏のことは知っているハズです。
しかし、ホツマツタヱには小野氏は全く出てこないのです、これは異常と言わざるを得ません、しかも小野氏の功績は「神様の所業」のごとく表現されていて、意図的に隠されている印象を受けます。
私の研究から小野氏とは瀬織津姫に始まった氏族であることは明白であり、かつ強大な軍事力を有していたことはもはや確実だろうと思います、しかし記述されないのはなぜか?
①クシミカタマは神武天皇を支える「臣」なので、神武天皇の存在そのものを脅かす小野氏の事は書けなかった?
②陰陽思想から天つ日嗣たる大王家を「陽」とした時に、「陰」の存在として小野氏があった為、宗教的に伏せる必要があった、つまり陰の大王家なので、その事跡は神からの加護という認識だった?
どちらにしろ、小野氏の事は大王家の体(実行部隊)として扱われ、その功績は公には大王のものとされ、人間として、氏族としては別に褒賞を与える形で存在していたように思えます。
大王家からすれば唯一、絶対の信頼をおける一族であり、小野氏も陰の大王家として瀬織津姫から使命を帯びていた様に思えます。
正解はどこかに残されているかも知れませんが、どちらにしろ意図的に小野氏の存在は隠されてきた事は間違いないと思います。
私はいつか、その秘密を見つける事になるのでしょうか?
龍海