小野榛原の地名から神武を勝たせたのが「小野氏」だと分かりましたので、今回、ちゃんと神武東征について考察を加えようと思います。


 まず時代背景として、卑弥呼世襲足媛)の登場前なので、日本は百ほどの国に分かれていた時代になると思います、ただそれは恐らくアマテル瀬織津姫の頃なので、神武の時には統廃合が進み国(支配者)の数は減っていたものと推測します。


 神武には兄がいて「五瀬命(いつせのみこと)」がたぶん、皇太子でありました、また父親のウガヤフキアエズの前はニギハヤヒの祖父が大王でありましたので、どうして皇統がウガヤフキアエズに移ったのか分かりませんが、順当ならニギハヤヒが大王になっていてもおかしくない状況になります。


 それからニギハヤヒの妻は長髄彦の妹なのですが、長髄彦は地元の豪族ではなく、高皇産霊尊系の人間である事がホツマツタヱから分かっています。
 この様な人間関係の中で起こった出来事なので伝説通りの内容では無い事は明らかだと思いますが、日本書紀をベースに見て行きましょう。

出典:wikipedia『神武東征』
「昔我が天神(あまつかみ)、高皇産霊尊・大日孁尊(※ここではアマテルの意味だと思います)、此の豊葦原瑞穂国を挙げて、我が天祖あまつみおや彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)に授けたまへり。是に火瓊瓊杵尊(ニニギ)、天関あまのいはくらを闢ひきひらき雲路を披おしわけ、仙蹕みさきはらひ駈おひて戻止いたります。是の時に運よ、鴻荒あらきに属あひ、時、草昧くらきに鍾あたれり。故かれ、蒙くらくして正ただしきみちを養ひて、此の西の偏ほとりを治しらす。皇祖皇考みおや、乃神乃聖かみひじりにして、慶よろこびを積み暉ひかりを重ねて、多さはに年所としを歴たり。天祖の降跡あまくだりましてより以逮このかた、今に一百七十九万二千四百七十余歳ももよろづとせあまりななそよろづとせあまりここのよろづとせあまりふたちとせあまりよほとせあまりななそとせあまり。而るを遼邈とほくはるかなる地くに、猶未だ王沢うつくしびに霑うるほはず。遂に邑むらに君(きみ、支配者)有り、村ふれに長ひとごのかみ有りて、各自おのおの疆さかひを分かちて用もて相凌ぎ礫きしろはしむ。抑又はたまた塩土老翁に聞きき。曰ひしく、「東(ひむがし)のかたに美よき地くに有り、青山四よもに周めぐれり。其の中に亦天磐船に乗りて飛び降る者有り」といひき。余われ謂おもふに、彼その地は必ず以て大業あまつひつぎを恢弘ひらきのべて天の下に光宅みちをるに足りぬべし。蓋けだし六合くにの中心もなかか。厥その飛び降るといふ者は、是饒速日(ニギハヤヒ)と謂いふか。何ぞ就ゆきて都つくらざらむ。」
 これが前文としてある様で、要するにアマテルトユケ高皇産霊尊)によって開いた国を天祖のニニギに授けた(ニニギの末裔という意識が強い事が分かりますね。)、そしてヤマトの地はニギハヤヒが開拓したと言いたいんでしょうね。

「10月5日、磐余彦尊は親(みずか)ら諸皇子と舟師(水軍)を帥(ひき)いて東征に出発した。速吸の門に至った時、国神の珍彦(うずひこ)を水先案内とし、椎根津彦という名を与えた。筑紫国菟狭に至り、菟狭国造の祖菟狭津彦・菟狭津媛が造った一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)に招かれもてなされた。この時、磐余彦尊は勅して、媛を侍臣の天種子命(中臣氏の遠祖)とめあわせた。
11月9日、筑紫国崗水門に至った。
12月27日、安芸国に至り埃宮に居る。
乙卯年(紀元前666年)

3月6日、吉備国に入り、行宮(高島宮、岡山県岡山市高島)をつくった。高島宮には3年間滞在して、舟を備え兵糧を蓄えた。」とあり、東日流外三郡誌では広島岡山でも長髄彦は戦い勝ったと書いていましたが、これは後から加えた内容だと思われ、実際には協力してくれない豪族達に参戦を呼びかけていたが正解だと思います、しかしその結果は残念な内容だったと思います。

「戊午年(紀元前663年)
2月11日、難波の碕に至り、その地を浪速国と名付ける。
3月10日、河内国草香邑青雲の白肩の津に至る。
4月9日、龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(うちつくに)へ入ろうとした。この時に長髄彦という者があってその地を支配しており、軍を集めて孔舎衛坂(くさえ の さか)で磐余彦尊たちをさえぎり、戦いになった。戦いに利なく、磐余彦尊の兄五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。磐余彦尊は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾をたてて雄叫びした。このため草香津を盾津と改称した。のちには蓼津といった。磐余彦尊はそこから船を出した。
5月8日、茅渟の山城水門(やまき の みなと)に至った。ここで五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国の竈山にいたった時に薨じた。」とあり、戦況は五瀬命を失い、最早、意地の行軍の様相を呈しています。
 それでも止めなかったのは、やはり大王の立場を賭けた戦いだったと言えると思います。

「6月23日、名草邑にいたり、名草戸畔という女賊を誅して、熊野の神邑を経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。磐余彦尊の兄稲飯命と三毛入野命は陸でも海でも進軍が阻まれることに憤慨し、稲飯命は海に入って鋤持神となり、三毛入野命は常世郷に去ってしまった。磐余彦尊は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人熊野高倉下は、霊夢を見たと称して韴霊(かつて武甕槌神が所有していた剣)を磐余彦尊に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。この時、八咫烏があらわれて軍勢を導いた。磐余彦尊は、自らが見た霊夢の通りだと語ったという。磐余彦尊たちは八咫烏に案内されて菟田下県にいたった。」とあり、ここで重要な展開を見せます、イナイイミケイリなどの兄弟を失い一人となった訳ですが、高倉下タカクラジ)が布都御魂を持ってきます、これは岡山県石上布都魂神社に祀られていた素盞鳴尊の神剣ですが、何故高倉下だったのか?

 高倉下大山祇の男系の末裔ですから、少なくとも大山祇が加勢し始めた事は分かります、また八咫烏も登場しますので、母方の賀茂氏も参戦してきた事が分かります。

 逆にいえばここまで静観していた事になり、この事から神武以外の三人もしくは、五瀬命だけか分かりませんが、不満を持っていたともとれますね。

 だから、神武ならOKという事で加勢し始めた感があります。

「8月2日、菟田県を支配する兄猾と弟猾の二人を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦尊を暗殺しようとしていることを告げた。磐余彦尊は道臣命(大伴氏の遠祖)を送ってこれを討たせた。磐余彦尊は軽兵を率いて吉野を巡り、住人達はみな従った。
9月5日、磐余彦尊は菟田の高倉山に登ると八十梟帥や兄磯城の軍が充満しているのが見えた。磐余彦尊はにくんだ。磐余彦尊はこの夜の夢で天神より天平瓫八十枚と厳瓫をつくって天神地祇をまつるように告げられ、それを実行した。椎根津彦を老父に、弟猾を老嫗に変装させ、天の香山の巓の土を取りに行かせた。磐余彦尊はこの埴をもって八十平瓮・天手抉八十枚・厳瓮を造り、丹生の川上にて天神地祇を祭った。
10月1日、磐余彦尊は軍を発して国見丘に八十梟帥を討った。11月7日、八咫烏に遣いさせ兄磯城・弟磯城を呼んだ。弟磯城のみが参上し、兄磯城は兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。12月4日、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雨氷(ひさめ)が降ってきた。そこへ金色の霊鵄があらわれ、磐余彦尊の弓の先にとまった。するといなびかりのようなかがやきが発し、長髄彦の軍は混乱した。このため、長髄彦の名の由来となった邑の名(長髄)を鵄の邑と改めた。今は鳥見という。長髄彦は磐余彦尊のもとに使いを送り、自分が主君としてつかえる櫛玉饒速日命(物部氏の遠祖)は天神の子で、昔天磐船に乗って天降ったのであり、天神の子が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。長髄彦は饒速日命のもっている天神の子のしるしを磐余彦尊に示したが、磐余彦尊もまた自らが天神の子であるしるしを示し、どちらも本物とわかった。しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日命は長髄彦を殺し、衆をひきいて帰順した。」とあります。

 賀茂氏高倉下が参戦しても長髄彦との戦いには勝てない様子が書かれています。

 「そこへ金色の霊鵄があらわれ、磐余彦尊の弓の先にとまった。するといなびかりのようなかがやきが発し、長髄彦の軍は混乱した。」とあり、これが小野氏でなければ小野氏が天祖を祀る権利や素盞鳴尊を祀る権利など貰える筈がありません。(神武の時にクシミカタマの末裔は大物主を三輪山で祀る事になった。)

 もう一つ気付くのは、小野氏にもニニギの血筋が入っていたか、もしくは神武の血筋の小野が生まれたのだと思います。

 クシミカタマから素盞鳴尊を祀る権利を貰う時にも、小野氏の娘を妻にして、その子が小乃彦となっている様ですので、神武の子の小野彦もいたのかも知れません。

 直接的な情報が無いのでアレですが、状況的には十中八九そうだろうと思います。

 小野の参戦によりニギハヤヒは交渉の末裏切り、長髄彦だけが悪い人の様な流れになっていますが、本当はニギハヤヒが正当な大王だと主張し長髄彦の支援を受け、手を組みクーデターを起こした!が正しい解釈だろうと思います。

 しかし最初は五瀬命への反発から支持を得ていたものが、神武だけとなり、賀茂氏(ワダツミ系)や尾張氏小野氏の参戦で勝敗は決したのだと思います。

 そして小野氏は組閣には加わらず、最高の名誉である祖神(今回はニニギ素盞鳴尊ですね。)を祀る権利を神武クシミカタマから貰い、ヤマト最強氏族の見えない称号も得たのだと思います。

 だから、官吏になろうともせず、神様を祀り、戦争には参画し、訳の分からない一族になっていたのだと思います。(つっかかってくる氏族もいないし、大王への発言力は側近よりも強い、我儘な一族!)

 小野妹子の失策、親書を無くした件でも妹子を失脚させようとする謀略だった可能性が高いと思いますが、天皇家としては小野氏が何をしても非難出来ない事情があったのは、神武の時の恩があった為だと思います。

 小野岑守小野篁などは明らかに出世には興味が無い動きをしています。(出世するには高位の妻を貰えば良いのてすが、二人共に美人で地方出身の嫁ばかり貰っている印象です。)

 小野氏としては余るほどの領地を持っていて、殊更拡げる必要も無かったのでしょうね、小町小野家も余って出た小周防の土地を分家して相続していますので、領地運営というのはそれ程簡単では無かったのだと思います。

 ともあれ、神武東征における小野氏の活躍と素盞鳴尊を祀る事になった経緯が分かりました。

 また何処かでニニギを祀る小野氏が今もあるのかも知れません、もし見つけたらご紹介したいと思います。

 龍海