世襲足媛のことを見てたら、ホツマツタヱには15歳で后になった事が書いてありました。


 二倍歴なら7歳半となり、予想より早すぎる感がありますが、ホツマツタヱに文字として15歳とあるのか、暦から逆算して15歳なのかで相当意味は違いそうです。


 で、確認するとホツマツタヱの文に「15歳ぞ」とありました、ということは7歳半で嫁に行った事になりますね、政治色しかない年齢です。


 二倍歴を証明する様な内容もちゃんとありました、天足彦国押人命を産んだのが16年後でした、それでも15歳半なので、なかなか早いですね。


 でも嫁いで16年後に子を産んでいるなら、二倍歴は確実だろうと思います。


 さて、世襲足媛が卑弥呼なら「台与(とよ)」は誰なのか? 壹与(いちよ、いよ)、臺与(とよ)の漢字問題はありますが、ほっといて、私は台与だと思っています。


 確か既に特定されていたはずと思いながら、ポチポチとググッてみていると、やっぱり特定されていました。


 海部氏に伝わる国宝の『勘注系図』に出てくる「天豊姫命」だそうです、ややこしいのは尾張氏に「乎止与命(おとよのみこと)」という人がいて間違われそうなのですが、この人は男なんで間違えたらダメなやつです。


 でも天皇妃にいないなぁ〜と思っていたら、その謎も既に解かれていて、竹野姫のことらしいんです。


 その謎解きの工程はこうです。


 『勘注系図』には「日本得魂命の妹」と紹介されていて、「亦名天豊姫命」、「大倭姫命」とあります。


 ここで、天豊姫命の名前が分かりました。


 しかし女王なら最低でも天皇妃でないと困りますよね。


 父親の名前が建諸隅命(たけもろずみのみこと)というのを手掛かりに探します、建諸隅命には別名があり「由碁理(ゆごり)」といいますが、『古事記』に丹波の大縣主由碁理の名前があり、その娘である竹野姫が開化天皇に嫁いでいる事を見つけています。


 自分と似た匂いを感じつつ、私も同じ結論となりました。



 世襲足媛からすると、5代後になり、百年後の人物ですが、世襲足媛が80歳を超えて亡くなったと思われる事や、死後しばらくは男王だった期間があること、台与は13歳で天皇妃になった事を考えると、これまたドンピシャ!だろうと思います。(13歳も二倍歴でしょうから、6歳半で天皇妃なら政治色が濃厚だと分かりますね。世襲足媛とセットで考えても、卑弥呼と台与に比定するのは当然だと思えます。)


 今回は楽が出来たので良かったです、宇那比媛を卑弥呼とする方の研究成果ですから当然かも知れませんが、宇那比媛を卑弥呼とした場合には2代しか離れておらず40差では宇那比媛が80歳の時には40歳のオバチャンになっています。


 批判する訳ではありませんが、この矛盾はどうするつもりだったのでしょう?(まぁオバチャン天皇妃を皇后にしたと解釈すればいいのか!? 後で皇后が変わったと解釈すれば良いので。)


 ともあれ、台与の問題はこれで完璧な説明になろうかと思います。


 やはり、一番の問題となりそうなのは世襲足媛の墓が何処なのかになりそうですね。


 孝昭天皇の近くには無さそうなので、孝昭天皇が死んだ後は別にいたのでしょうね、天足彦や孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇の項目にヒントがあるのかも知れませんね。(世襲足媛の治世は三人の男王にまたがっていたと思うので。世襲足媛のした事が三人の天皇の事として記録されているハズですよね~。)


 という事で、気になる人は調べてみてください。


 私は寝る前に読書がてらググッてみつけますね〜。


 一つ私も誤解していたのですが、「年己長大」というのは二倍歴の年齢を聞かされたからに他ならぬでしょう、もし80歳まで生きていたら160歳と聞く訳ですから、「長大」と表現したのだと思います。


 なので、80歳まで生きたとする根拠が少し薄れましたが、まあ多分いいとこを突いているとは思います、ホツマツタヱを研究する楽しみが出来ました(⁠≧⁠▽⁠≦⁠)


 龍海