今日は小野家系図の一部をご紹介します。
写真中央に名前があるのが、新居浜にある小野氏の初代となった人物で、小野中務少輔元治と読める事が分かります。
家紋が上に描いてあり、下がり藤だと分かりますね。
これは平安時代に起因するものらしく、元治さんは天正頃(1573)の人なので、もっと大昔の名残りの様です。
何で藤原氏の家紋なの? という疑問は讃岐の歴史と関係していました。
讃岐は元々、「綾氏(あやうじ)」というヤマトタケルの子孫が國造をしていました(実質的に讃岐を支配していた訳ですね。)、平安時代の末期近くに平家の支配が強くなり、讃岐も支配下にしようとしたらしいです。
その時に綾氏は在地豪族と連合を組んで対抗したらしく、綾氏は途中に藤原氏の婿を迎えて、讃岐藤原氏を名乗ったらしく、また讃岐目代に橘氏が居たので、讃岐好古小野家が家紋が下がり藤で、橘氏をミドルネームの様に名乗るのは、この三氏による血縁関係と同盟にある様です。
私も綾氏の子孫と思われる方にお会いしましたが、やはり下がり藤が家紋に入ってたのですが、元の綾氏の家紋が合成されていて、下がり藤の中に三階松という家紋でしたね。(三階松が綾氏の家紋です。)
さて、元治さんですが、戦が小康状態になりつつあるので、備中と同じく葦原の津を干拓して「沢津村」を作ったそうです。
備中では同じ様に、天正10年に小野中務大輔重次が長尾村を干拓してますから、多分、この二人は兄弟なんでしょうね。
となると、父親は小野右門正末である可能性が高いと思います。
ただ、備中の重次の家紋は左巻き三つ巴なので、完全に分家しているのだと思います。
しかしその子孫の中に、橘氏を名乗る者もいるので、やはり讃岐好古小野家の系譜には違いないと思います。
備中は小町小野家があったので、わりと平和な時期が長い間続いたようですか、讃岐は平安時代に既に荒れていた事が分かりますよね。
武将として戦っていた讃岐好古小野家の足跡がよく分かる史料だと分かって頂けかと思います。
皆さんも百年後の子孫の為に、今分かる事を記録に残してあげると良いと思います。
今は簡単に分かる事でも百年後は知りようが無い事がありますからね〜。(笑)
うちのご先祖も何か残してくれていれば…………、楽できたのに…………。
龍海