前回、新居浜市にある神社の祭神に小野小町があるということをお伝えしましたが、これらの神社は小野氏が家の氏神として祀った神社がその後に村々の神社として残ったもので、元々は家の守り神であった訳です。

 

 中世などは神社の建立は厳格に管理されていたと思います、ご先祖ならば社を建てて管理できるのかと問われれば、近代ならば可能だと思います、しかし江戸時代以前は恐らくは申請を出し、許可されて初めて祀る事が可能だったと思っています。

 

 でなければ、日本中が神社だらけだったと思われるからです。

 

 ということで、今日は新居浜市にある神社をご紹介したいと思います。

 

 愛媛県生涯学習センターには『えひめの記憶』として伝承などが、現代仮名遣いで読める様資料化されていて、今回非常に助かりました。

 

 その『えひめの記憶』の「三 愛媛の伝説①」の中に、次の様な記述がありました、

 

小野神社新居浜市大生院)…此の神社は小野小町を祭るとあるが、小野神社と称するにより小町を附会したものとされている。」とあります。

 

 この文を読むと、元々は小野神社では無かった印象を持ちますが、その真偽を調べるのは容易ではありません(神主が居る様な神社ではないので)、なので、単純に小野氏が建てた氏神で、小野神社として成立したときに「小町」が祭神とされたと解釈します。

 

 この事はどこからか、小野氏がこの地へ移住してきた時に、家の氏神としてこの神社を祀った事の足跡で在り、地理的要因から伊予にあった好古小野家だと思われるからです。(讃岐好古小野家にも小野小町が嫁いでいた可能性が高いのですが、讃岐好古小野家は室町時代の末期に備中(岡山県西部)へと来て、そのまま土着していますので、新居浜へと進出した可能性は低いと思っています。)

 

 松山市小野町には、小野氏が居なくなっていますので、この仮説を裏付けています。

 

 この「小野神社」を探すと、すぐには見つからず、「あれれっ、無くなったのかなぁ?」と思っていましたら、http://komekoji.seesaa.net/article/118715611.html

、を見つけ、見つけにくい事も書かれています。

 

 名前も「小野宮神社」と紹介されていますが、恐らく『えひめの記憶』にある小野神社の事だと思います。

 

 また近くにある「王神社」は「伝えによれば、本智様故有って南都より80騎の御供で阿洲北方と云う処にお越しになり、そのうちの7騎が当地に来着。万像とて土仏を作って供養したと言う。 正法寺は別当寺であった。」としていて、小野小町とは関係が無いのですが、現在は祭神の中に小野小町があり、この地域を小野氏が支配していた時に配祀されたと考えられます。

 次は「東雲小野神社」ですが、「天正の陣(1585)の際、田所に居城を構えていた小野一族も氏族2千騎の一翼として戦いに挑みます。しかし、同年7月15日(17日説あり)、一族八人は向原(現在の東雲2丁目あたり)の竹林で戦い、最期を遂げたのでした。」と紹介されていましたので、後世、残った一族がこの地に祠 ほこら を設け、御祖 みおや 神社(現在の東雲小野神社。里人は六神さんと呼んだ)を祀り、田所から移り住んで開拓したのが現在の東雲です。東雲小野神社では毎年夏、御霊 みたま 鎮めの例祭を斎行しています。」とあります。

 

 ここの祭神は小野小町ではなくて、ここで亡くなった小野氏の六人を祭神としているらしく、「六神さん」という別称からも分かります。(新居浜の昔話にも「六神さんの話」として伝承されている様です。)

 

 これらの情報は新居浜に拠点を移した小野氏の軌跡であり、城のあった田所も考慮に入れると下図の様な道程が見えてきます。

 更に伊予からの動きをプロットすると、

 この様な動きになり、伊予好古小野家の動きが追えるのです。

 

 松山市小野を出た理由は、単純に米が獲れないからでしょう、収入に反比例して小野家が大きくなっていった為に、広い領地を求めて動いていった結果だと思われます。

 

 松神子村の庄屋であった家が新居浜にあった好古小野家の本家であった可能性は高いと思われ、一族の記憶である、小野小町の末裔であるとする伝承が記述されている事を期待しています。

 

 龍海