小野が関係しているとする「猿回し」の起源ですが、さらに面白い記述があったのでご紹介をします、私の知識では「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」とは、アマテラス迎えに来ていた猿田彦と交渉をし先導者として受け入れ、その後、猿田彦を聟にして「猿女君」を称した事や、アマテラスの岩戸隠れの時に岩戸の前で裸踊り(神憑った舞でもある)をした位の知識しかなかったですし、その正体も分からないままなのですが。

 

 猿回しの家に伝わっている『猿屋伝書』に書かれている話には、「天の岩戸の前にて渦女命が槽底に上り拍子を蹈みて舞ひ玉ひしは是れ舞臺の最初猿舞の根原なり。」とあり、渦女命=天鈿女命、「猿舞」というものが生まれたいきさつを語り、その後神事となっていった事を書いています。

 

アメノウズメノミコトとニワトリ様 | 花と舞と御神鷄様

(天鈿女命、ちゃんと槽底の上で踊っていますね!!!)

 

 これだけなら、へ~そうなんだ~    、なんですが、この後に書いている事が「渦女命とは即ち猿女命の御事にして猿田彦命の御妻春日大明神の御母なり。」と書いているのです。

 

 ご存じ無い方も多いとは思いますが、猿田彦もどこの誰かは分かって居ない人物で古来より論じられている謎の人物なのです。

サルタヒコ - Wikipedia(猿田彦、wikipediaから引用)

 本拠地が伊勢だとか大分だとかは言われていますが、誰の系譜に繋がるかは分からない謎の人物です。

 

 また二人の子供が誰なのかも分かっていないのが現状で、その子孫が猿女氏と呼ばれ「稗田阿礼」もその子孫だといわれている事ぐらいしか分かっていないのです。(稗田氏が猿女氏の後裔と目されています。)

 

 先の文では二人の子供が「春日大明神」という事になっていますので、春日大明神を調べると、

春日権現(かすがごんげん)は神仏習合の神であり、不空羂索観音・薬師如来・地蔵菩薩・十一面観音を本地仏とする。春日大明神とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、春日社(現在の春日大社)などで祀られた。」とあります。

 

春日社は四柱の神(タケミカヅチ・経津主神・天児屋命・比売神)を祀っており」とある事から、この4人の内の誰かの事を春日大明神と言っているのだと思われ、それは大きな功績をのこしている「天児屋命」だと思います。

 

 ホツマツタエを元に系図を作ると、

 

 上記の様になります、ここで気づくのが「ヰチチアサカ姫」が現在の春日大社で祀られていない事が分かります。

 

 まぁ十中八九、ヰチチ=猿田彦、アサカ姫=天鈿女命で間違いないと思いますが、天児屋命の直系が中臣氏となり、別の子の直系が「猿女氏」となったと推測出来ます。

 

 猿女氏の父方とはもしかすると小野氏だったのかも知れません、瀬織津姫もそうですが、この時代は上位の氏族は男も女も重婚が当たり前だったのではないかと思えてきます。

 

 それは氏族の結びつきを強くして生き残りをかけたものだったに違いありませんので、統一王朝ではなかった段階ですから、自分の氏族の生き残りの為の重婚は肯定されていた様に思います。(アマテルの唱えた「伊勢の道」とは支配下においた豪族の繋がりを弱体化させる目的もあり、一夫一婦制を強要したともとれます。)

 

 つまり母系の天鈿女命の後裔氏族である猿女氏とは、実質的に当時の小野氏の臣下として従っていた可能性が高いと思います。

 

 ですから、猿女の養田が小野・和邇の領地に割り振られていた経緯があるのではないかと推測します。(ごく初期の段階から大山積系の氏族として存在していたからだと思います。)

 

 この推測からならば、猿回しとは「神事」に由来し、猿女の舞が「猿回し」の元であり、猿女の貢進の権限を小野が有していた事も説明がつきます、しかし権限は小野が有していても祀る神が違うので、しかも道義的には猿女氏のものなので、小野から猿女氏(稗田)へと権限を移す為に小野野主は奏上をしたのかも知れません。

 

 さて、猿田彦と天鈿女命の正体が分かったのですが、どうしましょ?!

 

 出来れば、二人の事を研究している人が私のブログを読んでいて頂けると嬉しいのですが、まさに横の連携がされていない弊害を感じる場面です。

 

 私には二人の事を追求する情熱は少ししかないので、出来れば誰かの研究で結果だけ知りたいなと思うしだいです。

 

 また春日社から二人の名前が消えている点は、猿田彦神社で別に祀る時に名前を抜いたと考えます。

 

 どの様な都合でそうなったのかは知りませんが、おかげで猿田彦・天鈿女命と天児屋命とのつながりが分からなくなってしまったのでしょう、しかしながらホツマツタヱから、かろうじて残されている情報からたどれたので行幸というべきでしょうか。

 

 因みに猿田彦も猿に似ていて、後世に「猿丸」とされた可能性が高いと思っています。

 

 二千年前の猿顔の人は、猿丸よりも「猿田彦」というあだ名だったんでしょうね、(笑)、こんな些細な理解が古代を明るく照らしていくような気がします。

 

 龍海