小野小町 ~絶世の美女の真実 | 京都トリビア × Trivia in Kyoto

 今日は小野小町の瘡病み伝説が生まれた理由と、薬師如来との贈答歌が広まった事について総括してみようと思います。

 

 まずは柳田国男がこの瘡病み伝説について著書の中で触れていますので、『定本 柳田国男集 第五巻』の「木思石語」から引用します。

 

稍奇拔なものでは瘡藥師の歌間答、或美人が「身より佛の名こそ惜けれ」といふ一首の歌を以て、所願の效無きを怨ずると、忽ち戸帳の中より御聲高く、
  村雨はたゞ一時のものぞかしそのみのかさをそこに脱ぎおけ
とあって、瘡癒えて痕も無しといふ話の如きは、南は日向國の法華嶽寺から中央部一帶にかけて、和泉式部の逸話として傳へられて居るのに、伊豫と上州では土地の名が小野鄕なる爲に、小野小町の事蹟と稱するのみならず、更に早くから叡山に於いては、さる美しき兒と謂ひ、又此話の發生地らしき三河の鳳來寺の峰の藥師に付ては、今は却って一休和尚の頓作にかゝるものゝやうに、語る人が多くなって居るのである。
」とあります。

 

 柳田国男は瘡病みの薬師如来との贈答歌の発生元が鳳来寺の峰の薬師に始まると勘違いしている様ですが、峰の薬師の伝承は次の様なものでした。

 

おなしきくにみねのやくしハ、れいげんあらたにましませハ、てうせきまうずる人たえざりけり。

 三河国の峯の薬師は霊験あらたかで、詣でる人が絶えなかった。

 当国やはぎといふ所にかさをやむものありて、

 三河国の矢矧という所に瘡を病む者が峯の薬師に詣でて、(途中省略しますが)

ありがたき仏ちよくやと、しばらくらいはいし、をきあがりてミれば、ミのかさハをちてあともなし。

礼拝し起き上がってみれば、身の瘡が落ちて、痕もなかった。治癒したようです。
」と紹介されており、似ている様で違うのがわかります。

 

 いわゆる霊験譚としては同じですが、小野小町の伝承として見ると、小野小町の瘡病みは奈良県の「青井神社」にルーツがあることが分かります。

 

 その内容は、

 

奈良から桜井に通じる上街道にそって登坂町がある。この町の中ほどに青井明神 という社があるが、俗にくさ神さんと呼んでいる。 昔、小野小町が宮中で歌の競詠会があった時、全国からたくさんの歌人たちが集まったが、だれも小町に勝つものはなかった。紀州から出て来た某は小町に負けたのを残念に思い、朝廷にざん言して、小町を宮中から追い出してしまった。小町は途方にくれ、あちこち歩き回っている間に、瘡毒にかかり困っていると、ある夜の夢に翁があらわれ、『前世の悪因によって、そのようになったのである。奈良から一里(四キロメートル)はなれたところに、ホウソウ神をまつる神社がある。そこへ詣り、一心に拝むがよい』と告げた。  小町はそこで、二十一日間、行水して祈願すると、満願の日に瘡毒はすっかりな    おった。小町は、

  はるさめは今ひと時にはれてゆくここにぬぎおくおのがみのかさ 

     の歌を残して、伊勢に去ったという」とあります。

 

 前半部の伝承はさておいて、三代目の小野小町が奈良へ子供を授かりたいと頻繁に詣でていたのは確かだと思います、青井神社の伝承には行水して祈願(清潔にしていた)すると治ったとあるので、一過性の感染症と思われる瘡毒が治ったとしています。

 

 旅の途中で小野小町が死んだとする伝承は多く各地にありますが、古今集に載る三人の小野小町は何れも死んだ時の状況が描写されていて、旅の途中で死んだ人はいません、なので青井神社の伝承は瘡病みの部分は信用がおけます。

 

 岡山県倉敷市の日間薬師の伝承は本来が終焉時の贈答歌でしたが、青井神社の瘡病みの伝承が小野小町の伝承として根強くあったので、贈答歌が変質して薬師如来からの返歌が「おのがみのかさ」へと変じたと推測出来ます。(正しくは「おのがみのかた」)

 

 では何故変じたのか? そもそも、岡山県倉敷市日間薬師の贈答歌を作ったのは「恵心僧都」だと思います。

 

 では何故、恵心僧都は備中を訪れたのか?

 

 私は「小野小町」の縁の地を廻っていたのだと確信しています、それを証明するのもこの贈答歌なのですが、奈良の青井神社の和歌は、

 

 「はるさめは今ひと時にはれてゆくここにぬぎおくおのがみのかさ

 

倉敷市日間薬師の返歌は、

 

 「五月雨は只一時の物ぞかしをのがみのかたこゝにぬぎをけ

 

 ですので、似ている事が分かります。

 

 理由として恵心僧都は先に奈良の青井神社の伝承地へ訪れていて、先の和歌を知っていたと思われるからです。

 

 そして備中の伝承を残す際に作った薬師如来との贈答歌が、青井神社の和歌をオマージュして作られたが真相ではないかと思います。

 

 江戸初期頃から秋田を起点として小野小町ブームが来ていたと私は推測しています、そこで備中こそ本物であるとアピールするのに瘡病み伝承が無いのでは本物としてはマズい事もあり、和歌が変じ、七日後に亡くなった話が、七日で治ったという美談へと変わったのだと思います。(その場合は小野小町の老婆姿の像は意味不明となります。)

 

 柳田国男がいうように全国には薬師如来の霊験譚が多く伝わっているのでしょうが、小野小町に関しては実際に三代目の氏野さんが、旅行中に感染症に罹って青井神社で静養し治った事が真実としてあり、二代目の吉子さんの終焉の贈答歌が変じて、薬師如来の霊験譚として改めて広められたものだと確信しています。

 

 龍海