真言宗の開祖、空海と小野一族との関係は誰も研究されていないのですが、私は小野篁を研究する上で、空海との関係が密接なものであった事を認識せざるを得ませんでした。


 元々、空海の事は好きでしたので、色々と読んではいましたが、空海が密教の灌頂を受ける為に唐へ渡り、すぐに恵果和尚の元へと向かわず、半年後に登山し、一ヶ月後には最高位の灌頂を授かるなど出来すぎの話です。


 いくら空海が天才でも流石に一ヶ月で密教の全てを修めるなど不可能な話です。


 そこで出ている仮説が、日本と唐とで手紙の遣り取りをしていたのではないかという説です。


 空海は恵果和尚と手紙の遣り取りをしていて、そこで殆どの事を学んでしまい、唐へ渡ったのは最終確認の為と、元の言語のサンスクリット語(梵語)を学ぶ為だったとするものです。


 この仮説は端的に要点をついており、これ以外に説明のつくものは考えられないものと考えています。


 そんな折に、小野一族と小野小町の研究を始めた私は、佐伯有清氏の『最後の遣唐使』という本に出会います。


 空海を支えていたのは「佐伯今毛人(さえきのいまえみし)」という人で、空海も讃岐の佐伯氏出身ですから、同族と思われますが、人によっては同族ではないとも書いているので、恐らく母系による同族なのだと思います。(独自での調査はしていません。)


 この佐伯今毛人という人は平安京を造ったり、篁の前の遣唐使で大使に任命されますが、病気を理由に大使を降りた人でもあります。


 今毛人の斡旋で、空海は大学寮に入りましたが直ぐに辞めてしまいます。


 簡単すぎて辞めたとする解釈が多い様ですが、私的には知りたいことが学べないでは無かったかと思います。


 そして仏教へと傾倒していきますが、その後の消息は掴めなくなっています。


 菅原氏の私塾(塾の様になっていた)は有名でしたから、教えを求めて人が集まっていた事は有名ですが、小野については何も知られては居ません。


 私は渡来人の多く住む地域にあり、渡来人とも広く付き合っていた小野一族の元へと空海が居候していた時期がかなりあるのではないかと思っています。


 空海は仏教を比較し「密教」こそが最高のものだと評価を下します。


 しかし遣唐使として唐へと渡る事は難しく、年の近い「小野岑守」に愚痴をこぼしていたと思います。


 小野一族は元々、親新羅派でもありますし、クシミカタマ系小野氏は素戔嗚尊の直系にもあたります。


 新羅の王族は素戔嗚尊の系譜である可能性が高く、新羅側からも「小野」に対する認識は非常に友好的であった事を示す事例が『最後の遣唐使』にも書かれています。


 また小野岑守が新羅商船と直接的に太いパイプがあった事を示す証拠を佐伯有清氏はみつけ本の中に書かれています、このことから私は空海の手紙を唐と届け、空海を援助していたのは小野岑守だと思います。


 小野篁が書に於いて「天下無双」と書かれているのも、師匠に五筆和尚であった空海が影響しているとも思うのです。


 小野篁は空海と寺院の建立でも関わっていることが、お寺の寺伝に残されていますので、篁にとって空海は唯一尊敬出来る兄貴分だったと思うのです。


 小野一族の仏教への傾倒も小野篁に始まっている気がしています。(小野妹子も聖徳太子に影響されて仏教に傾倒していますが、これは小野妹子のみの印象があります。八男が大阪のお寺の住職にもなっていますので、解釈としては妹子が仏教への傾倒の初めというのは間違いありません。)


 篁の娘である小野吉子も備中にて仏教への造詣の深さを残しており、少なくとも岑守・篁時代は近くに空海が居た為に、仏教への造詣を深くしたと考えられるのです。


 龍海