小野お通が小野小町の子孫である事を伝える伝承は『山州名跡志』にありました、山州名跡志は正徳元(1711)年に刊行された22巻にも及ぶ詳しい地誌です。 

 

 『山州名跡志 巻之三』に載せられている、「○玉章地蔵堂」の内容を書き抜きます。

 

「○玉章地蔵堂 渋谷路傍ノ左ニ在リ

 地蔵菩薩 坐像七尺許土ヲ以テ造ル所 傳テ云フ。 作者ヲ小野小町 此ノ人艶色アルヲ以テ。 浮男ノ心ヲ悩乱ス。 是ノ故ニ親麤ノワカチナク。 贈ル所ノ艶書宛モ降雨ノ如シト。 老ノ後愛執ノ罪ヲ悲デ滅罪ノタメ。 自カラ此ノ像ヲ造テ。 諸方ノ艶書ヲ集テ腹内ニ蔵ム。 是ノ故ニ玉章ノ地蔵ト號スル也。 昔不道者腹内ニ艶書アル事ヲ傳ヘ聞テ。 之ヲ採ラン為此ノ像ノ後ヲ破ルト云フ。 又秀吉公ノ北ノ方政所ノ右筆ニ。 小野於津宇(オノヽオヅウ)アリ。 是レ即チ小町ガ苗孫トイフ。 是ノ故ニ此ノ像ヲ貴敬ス。 一旦破損ノ時。 手自(テズカラ)之ヲ張リテ彩色ヲ為ス。 腹内ニ長ケ三尺許ノ石ノ五輪アリ。 銘慈眼大姉年月無シ詳ナラズ。」

 

 慣れていないと読みづらいとは思いますが、小野お通が小野小町の子孫なので自ら直し彩色したと書かれています。

 

 小野お通は最近に至るまで、詳細が分からなかった人物だったのですが、この本を著した「白慧」という人物は、北の政所の右筆をしていた事を知っていた事が分かります。

 

 この文章の中のお通は三人がミックスされている様で、右筆(ゆうひつ)は藤原氏の小野お通、フリガナは藤原氏のお通の娘の小野お図(おづう)、そして小野小町の苗孫は美作の小野お通と思われます。

 

 江戸時代、美作の小野お通は殆ど知られていなかったと思われるので、小町の苗孫の小野お通ならば、右筆で有名な小野お通に違いないとなったのは、ごく当たり前の事かも知れません。

 

 鎌倉時代の末期までは、小町小野家の人間も朝廷に出仕していた事が、小野浄智の息子の名前から伺われる為、藤原氏の小野お通にも小野小町の血が流れている可能性は否定しきれないのですが、ここは直接的な伝承の残る美作の小野お通の事として問題ないと思います。

 

 この事から美作の小野お通さんは、十中八九、小野小町の子孫と言って間違いないかと思われます。パチパチパチ👏

 

 龍海