写真は京都の随心院に伝わる卒塔婆小町座像です、この卒塔婆小町座像の説明には「鎌倉時代」、「恵心僧都作」となっています。


 私の研究では随心院と小野小町に直接的な繋がりはありません、小野小町が領していた地に建てられた寺が随心院の前身である牛皮山曼荼羅寺であり、古今集が夜に出て以降、聖地巡礼で訪れた人々の問いに答えられるよう小野小町に関する物や情報が随心院に集まり千年以上の時を経た現在、あたかも小野小町に縁のあった寺の様に思われている事が正しい認識だと思われます。


 その上に立ち伝承を読み解くとかなり正確な認識が出来る様になります、卒塔婆小町というのは室町時代に観阿弥によって作られた能楽の名前になります。


 しかし卒塔婆小町座像は年代測定をしたものと思われ鎌倉時代の作となっています、作者は恵心僧都となっていますが、恵心僧都は平安時代中期(西暦で1000年頃)の人物ですので制作年代が矛盾する事になります。


 この答えも小野小町縁の寺の日間山法輪寺に答えがあります。


 今は一般に公開していませんが法輪寺には随心院とソックリの小野小町像があります、私が見た感じでは随心院のものよりかなり古いと思われます。


 また小町小野家が住んで居たと思われる地の一つに酒津があるのですが、平安時代から酒津にあったとされる済興寺にも恵心僧都作の阿弥陀如来像が現代まで伝わっています。


 此等を総合して考えると法輪寺に伝わる小野小町像は恵心僧都の作であり、小野小町縁のものを求めた随心院がこの像を鎌倉時代に写し由来を踏まえて伝えていたが、室町時代に卒塔婆小町が流行ったせいで像のイメージがピッタリ重なり、何時しか卒塔婆小町座像と呼ばれる様になったものと思われます。


 本家本元の法輪寺の小野小町像は伝承自体が途切れ、小野小町ゆかりだから在るのだろう程度の認識になったと思われます。


 住職によると一時、住職不在の時期があったと聞いていますのでその時に伝承も途切れたものと思われます。


 私の研究では小野吉子(小町)が日間山の薬師観音の元で亡くなった時と天皇家が興した寺である仁和寺が起こった時期が、ほぼ同じな事から小野小町が薬師如来に祈り亡くなった地に小野小町(小町小野家)の菩提寺として建てられたのが法輪寺であると考えています。


 小町が死んで百年後、この地を訪れた恵心僧都は小野小町の最期を聞いて、貴族の女性の平均寿命が40代の頃に、満78歳で亡くなった小野小町をイメージして彫られたものが法輪寺と随心院に伝来する小野小町像だと思います。


 また小野小町の最期を薬師如来との贈答歌の形になったのも同時期ではないかと推測しています、法輪寺の小野小町像の年代測定が行われれば明らかになる日が来ると思われます。